26年ぶりの「背番号3」を目の当たりにして、なぜ、少年時代、あれほどまでに長嶋茂雄が好きだったのか、やっと謎が解けた。つまり「背番号3」は躍動の象徴だったのだ。「3」という背番号そのものが美しいのではなく、ミスターの躍動感に魅かれたのであり、もっといえば背番号は3でも5でも6でもよかったのだ。どうやら私たちは、少なくとも私は背番号という味気のない記号を愛したわけではなかったらしい。今にして思えば、それを確認するのに、随分と遠回りをしてしまったような気がする。
ノックも終わりに近づいた頃、長嶋茂雄は火の出るようなライナーを三塁線上に放った。打球は江藤のグラブをかすめ、ファウルグラウンドに転がった。
 その瞬間である。ミスターは例のカン高い声でこう叫んだ。
「捕ってくれよ、今のは。あの角度への打球は二度と打てないんだよ」
 逆説めくが、現役時代、「あの角度の打球」を打てたことが、すなわち長嶋茂雄のレゾンデートルだった。打球の角度ほどそのバッターの志を雄弁に物語るものはない。ホームランバッターは例外なくボールを潰し、逆の回転をかけて、打球を45度以上の角度で処理しようとする。翻ってアベレージヒッターは、ボールの芯を射抜くことに精力を傾け、さして角度にはこだわらない。

 長嶋茂雄はそのどちらでもなかった。言葉にするのは難しいが、彼には自らが理想とする角度があり、しいていえば野手が捕れそうで捕れない、つまりは快音を発した瞬間、観客がハッと息をのむ、最もスリリングな角度にバットマンとしての生き甲斐を見いだしていたということだろう。

 野球にとって美とは何か――。
 実はそれこそが長嶋茂雄にとっては「永久」にして「不滅」のテーマだったのである。
 223本のノックの中には明らかな打ち損じもあった。打球の角度がイメージ通りに描けないと、長嶋茂雄はまるで市川雷蔵演じる眠狂四郎が、妖刀の刃こぼれを嘆くような目で自らのバットを恨めしそうに睨んだ。その姿を早春の西日が惜しげもなく黒土の上に映し出した。

 この原稿を長嶋茂雄へのオマージュのつもりで書いている。
 ノックバットを手にした時にはあれだけ光り輝いて見えたミスターだが、ベンチで選手たちの練習を見守る光景はどことなく寂しそうである。
 歯に衣着せずにいえば、私は長嶋茂雄に指揮官としての魅力を感じない。というより、向いていない。これは「90番」をつけた時から一貫して抱いている感想である。
 初めて日本一になった直後のことだから、あれからもう6年がたつ。長嶋茂雄に「どんな野球が理想ですか?」と問うと、次のような答えが返ってきた。
「あくまでも僕の理想は9人野球です。オープニングゲームでスタメンを決めれば、ほとんどそれをいじることなくシーズンを乗り切っていく。いってみればONを核にした昔の巨人野球ですね」

 私は慄然とした。9人野球が理想で、スタメンを決めれば、ほとんどいじらない――暗に「監督は要らない」といっているようなものである。さらに踏み込んでいえば監督も必要としない野球こそが、実は長嶋茂雄の理想ということになる。これほどの矛盾が他にあるだろうか……。

 アメリカで野球の監督を「フィールド・マネジャー」と呼ぶ。戦略や戦術よりも、人材をどうマネージメントするかが、与えられた最大の職分である。
 にもかかわらず、長嶋茂雄は人材の登用、起用に一切、興味を示さない。そればかりか采配にすら愛情を示そうとはしない。
 続けてミスターはこう語った。
「今シーズン(‘94年)はたまたまベテランと若手を切り換える過度期ということでアメフト野球をせざるをえなかった。正直言いましてね、これは疲れるんですよ。代走がどう、ピンチ守備がどう……。5、6回になると、もう8、9回のことを頭に入れておかねばならないんですから、精神がクタクタになってしまう。僕はこういうのは好きじゃないですねぇ。9人に試合のすべてを任せることができれば、もうどれだけ気分が楽だろうかと……(笑)」

 およそ、指揮官たる者の発言とは思えない。しかし、これが長嶋茂雄の偽りのない本音であり、同時に恐るべき野球観なのだ。
 繰り返すが、長嶋茂雄の理想は「9人野球」である。「9人に試合のすべてを任せたい」といっているのだから、もとより監督など必要ない。そればかりか監督の存在を消すことに、長嶋茂雄は生き甲斐を感じている。ということは、である。長嶋茂雄が理想とする野球は、監督である長嶋茂雄の存在を完全に消し去ることで実現する、ということになりはしないか……。

 この壮大なパラドクスをいったい私たちはどう解釈すればいいのか。長嶋茂雄のプレーをナマで観ることができたのは同時代人として最大の喜びだが、職業柄長嶋茂雄について考えることは同時代人として最大の不幸である。
 ミレニアムのシーズンを前にして、ベースボールフリークにこう告げたい。巨大戦艦は立ち往生し、間違いなくペナントレースは混沌をきわめるだろう、と。なぜならこの巨大戦艦のスキッパー(船長・メジャーリーグで監督を指す)が愛してやまないのは勝利でも優勝でもなく、非日常を絵に描いたようなとびきりのスリルだからである。

(おわり)

<この原稿は2000年4月号『Number』(文藝春秋)に掲載されたものです>
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