小学校の先生が、大学生を教えようとすれば難渋するだろう。では大学教授なら小学生を左うちわで教えられるのか。いや、それも、そう簡単ではあるまい。

 

 さる5月1日に80歳で世を去ったサッカーの元日本代表監督イビチャ・オシムさんを惜しむ声が跡を絶たない。悲惨な内戦の記憶がそうさせたのか、オシムさんはどこか物憂げで謎めいた指導者だった。「ライオンに襲われたうさぎが逃げる時に、肉離れしますか? 準備が足りない」などで知られるオシム語録は、どれも示唆に富むものばかりだった。

 

 話を進めよう。代表のサッカーを近代化させたのは初の外国人監督ハンス・オフトだったと思っている。言ってみれば彼は小学校の先生だった。九九に始まり掛け算、割り算を平易な言葉で丁寧に選手たちに説いた。

 

 以下は当時の代表・都並敏史から聞いた話。ボールを持った時、相手が近くにいなければ「ターン」、来ていれば「リターン」。合宿で、ある選手がボランチの森保一(現代表監督)に対し「リターン」と言うべきところを間違えて「ターン」と言ってしまった。次の瞬間、森保は相手に正面衝突してしまう。「でもオレたちは誰も森保を笑えなかった。当時世界レベルの試合で前を向けるのはラモスだけだった」。

 

 オフトが小学校の先生なら、02年日韓W杯で代表を初の決勝トーナメント進出に導いた3代目の外国人監督フィリップ・トルシエは中学校のスパルタ教師か。あれほど四六時中怒っている監督は見たことがない。当時の協会副会長・川淵三郎は「日本人に対し“サッカーを教えてやる”とでも言いたげな態度が気に入らなかった」と後に語った。

 

 トルシエの跡を襲ったジーコは川淵(当時会長)の肝入り人事だった。<「指示待ち族」と言われた日本の選手に勝利のメンタリティーを植え付けてくれるのではないかと思った>(自著『独裁力』幻冬舎新書)。トルシエ流に慣らされた選手たちが“指示待ち族”ならジーコは“指示なし監督”だった。「セレソン(代表)の選手なら、そんなこと言わなくても分かっているだろう」。中学のスパルタ教師から大学の名誉教授への政権交代。何事も極端から極端はよくない。06年W杯は惨敗に終わった。

 

 一敗地に塗れた代表の再建を託されたのが05年にジェフをナビスコ(現ルヴァン)杯優勝に導いたオシムさんだった。ジーコが大学の名誉教授ならオシムさんは大学教授なみの知識と実績を有する高校の物理教師のイメージ。もしジーコと順番が逆だったらどうなっていたか。少なくとも日本のサッカーが見ている風景は、今とは全く違ったものになっていたはずだ。

 

<この原稿は22年5月11日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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