こちらの「2・26事件」は歴史の教科書には載っていない。3日前の5月15日、Jリーグはスタートして30年目を迎えた。もしサッカー版「2・26」が起きていなければ、Jリーグはあれほど見事に離陸できなかったのではないか――。

 

 そんな疑問を初代チェアマンの川淵三郎にぶつけたことがある。答えはこうだった。「プロ化という以上は選手たちの前に、まず自分たちの意識を改める必要がある。それを決意したのがあの日。だから僕にとっての“2・26事件”なんだよ」

 

 1989年2月26日、当時JSLの総務主事だった川淵は空模様が気になって仕方なかった。プロ化への試金石として、国立競技場でダブルヘッダーを組んでいたからである。

 

 第1試合は読売クラブ-三菱重工、第2試合はヤマハ発動機-日産自動車。「当時としては最高の試合を2つ用意した」と川淵。合言葉は「国立を満員にしよう」――。

 

 当時の川淵はプロ化に諸手を挙げて賛成、という立場ではなかった。いわば条件付き推進派。「ボールひとつ、まともに蹴れない連中が何がプロだよ。笑わせるな」という思いの方が強かった。

 

 短兵急にプロ化に向かう前に、まずやるべきことをしっかりやろう。試合の質は当然として、選手のマナーに問題はないか。舞台装置は、観客への応対は……。

 

 試合は第1試合が1対0で読売、第2試合が2対1でヤマハ。両試合とも手に汗握る好勝負だった。観客数は順に3万5000人、4万1000人と発表したが、実数は2万8000人と2万9000人。多少サバを読んだが、それでも当時としては“大入り”だ。

 

 総務主事という役職はリーグ運営の責任者にあたる。多くの関係者が川淵に「成功でしたね」と握手を求めてきた。しかし、川淵の心は晴れなかった。「何かが違う…」。強風にあおられ、試合後の国立に舞った弁当箱の包装紙やビニール袋が、サッカーが置かれた立場や現状を物語っているかのように感じられた。

 

 川淵は語った。「それまでは、お客さんが入らないのは、試合内容がよくないからだ。もっといい試合をしろ、とハッパをかけていた。だけど、そうじゃないんだと。素晴らしい施設の中、緑の芝があり、音楽、照明…。これらの舞台装置が整って初めて選手たちはやる気になり、観客も感動する。すなわちプロ化とは選手のみならず、自分たちも含めたプロ化なんだと。そこに気付かされたんです」

 

 その4年後の93年5月15日、音と光に包まれた国立での開幕セレモニーは、それ自体が芸術作品のようだった。「スポーツを愛する皆様」で始まる川淵の開会宣言も胸に染みた。2・26の教訓が5・15に生かされたのである。奇しくも2・26と5・15。歴史は不思議な韻を踏む。

 

<この原稿は22年5月18日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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