今年は沖縄の本土復帰50周年という節目の年にあたる。1972年5月15日、施政権が米国から日本に返還された。

 

 沖縄県出身初のプロ野球選手として知られる安仁屋宗八(広島-阪神-広島)には、もうひとつ“沖縄初”の勲章がある。「沖縄の選手で都市対抗野球に出場したのは、僕が初めてなんですよ」

 

 1963年、沖縄高を出て地元の琉球煙草に入社した安仁屋は、九州大会での好投が認められ、大分鉄道管理局(大分市)の補強選手に指名された。

 

 大会前の合宿で、安仁屋は大分鉄道管理局のキャッチャーからシュートを教わる。「安仁屋、オマエの投げ方はシュートに向いている。手首を逆側に滑らせるようにして投げろ」。2回戦の日本生命(大阪市)戦。安仁屋はリリーフとして初めて後楽園のマウンドに上がった。「投げたのは3イニングだけですけど、1点も取られなかった。覚えたてのシュートで相手のバットを3本か4本はへし折ったね」

 

 試合は0対2で敗れたが日本橋の宿舎に帰ってからが大変だった。瓜生勝という東映の九州担当スカウトが待ち構えていた。大分鉄道管理局監督の沖誠哉と瓜生は旧知の仲だった。

 

 この時、スカウトという言葉を安仁屋は初めて耳にした。「スカウトって何をする人ですか?」「まぁ“人買い”よ」「人買い、ですか?」「そう、オマエを買いに来とるんじゃ」

 当時、社会人野球の選手は会社を辞めた時点でプロに身を投じることができた。とはいえ、即答できる類いの話ではない。「親兄弟、(高校の)監督とも相談してみます」

 

 瓜生にとっては、これが運の尽きだった。米国の施政下にある沖縄に行くには、当然ながらパスポートがいる。安仁屋によると、申請して発給されるまでに最低でも1カ月はかかった。その間隙を突いたのが広島だ。当時、広島にはフィーバー平山という米国籍の日系人選手がいた。球団は現役選手を“にわかスカウト”に仕立て上げ、すぐさま沖縄に派遣、入団交渉にあたらせたのである。

 

 安仁屋は振り返る。「平山さんの片言の日本語が人の良さを表しているようで、ウチのオヤジが“この人なら大丈夫だ”と。それで広島に入ることになったんですよ」

 

 広島では鋭いシュートを武器に“巨人キラー”として名を成した。「もし都市対抗野球で補強選手に選ばれていなかったら、今の僕はない」。命を永らえた疎開先は大分、運命を変えた補強先は大分鉄道管理局。安仁屋は何かと大分に縁がある。

 

<この原稿は22年5月24日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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