徳島の夏の風物詩といえば、400年以上の歴史を誇る『阿波踊り』だ。“躍る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々”。毎年8月中旬に行われる伝統の祭りでは10万人が踊り、140万人が見物する。
“阿波踊り”と聞いて、多くのサッカーファンはこの男を思い浮かべるに違いない。大宮アルディージャの藤本主税だ。ゴール後に阿波踊りパフォーマンスを披露し人気者になった藤本は、プロ15年目になった今季も第一線で活躍を続けている。12シーズン連続でゴールを決め、通算50ゴールにも到達する勢いだ。高校時代から全国の舞台で戦い、Jリーグでも走り続ける男は、現在、オレンジのユニフォームを身に纏い、左腕にはキャプテンマークを巻いている。尊敬してやまない選手と同じ“背番号11”を背負いピッチに君臨する藤本は、多くのサポーターに愛される絶対的な存在だ。
 プロサッカー選手は夢ではなく、なるもの

 藤本がサッカーを始めたのは小学校2年の時だ。学校の少年団に入りサッカーボールと戯れた。初めての試合で藤本はいきなり結果を残す。少年団での試合とはいえ、5ゴールを決める活躍を見せたのだ。「どんなゴールを決めたかとか細かいことは覚えていませんが、周りからチヤホヤされたという思い出はありますね」と藤本は当時を懐かしそうに振り返った。このゴールラッシュでサッカーの魅力にとりつかれた藤本少年は、小学校から中学へ進学してもサッカー部に所属し、自らの技術を磨いていった。

 藤本にとってターニングポイントとなる出来事は、15歳の時に起きた。2歳から鳴門市に住んでいる藤本にとって、サッカーを続けるために選ぶ高校は県下では2校しかなかった。徳島商業高校と徳島市立高校。この2校は県内では抜きんでた実績があり、強烈なライバル関係にあった。この頃にはプロに行くことを意識していた藤本は、当初、徳島商への進学を希望していた。
「当時の徳島商は個人技を中心とする、個の力で勝つサッカーをしていました。本当にサッカー漬けで、朝から晩まで練習しているイメージです。
 対して徳島市立は組織力を重んじるサッカーだった。進学校ということもあり、短い時間で効率のいい練習をしていました。自分の力を磨くことを第一に考えていたので、徳島商に行くことにしていました」

 しかし、ある出会いが藤本の運命を変えた。
「徳島商に行くつもりだったので、本当は徳島市立の関係者には会いたくなかった。それでも2校の先生と会う約束をしていたんです。まず会ったのが市立の逢坂(利夫)監督だったんです」

 藤本は父親を1歳の時に亡くしている。母親が女手ひとつで姉と自分を育ててくれた。小学校6年の時、後にJリーグと命名されるプロサッカーリーグができることを知り、「自分の手でお母さんを楽にしてあげたい」と自然に考えるようになった。もちろん、サッカー少年の中からプロ選手になれる者は、ほんの一握りだ。しかし、藤本にとってプロサッカー選手は夢ではなく、ならなければいけない存在だった。

 そんな中、逢坂監督に出会った。
「“全国大会に行かなければ誰にも見てもらえない”と声をかけてもらったんです。話をしてすぐに“この人の下でサッカーがしたい”と思いました。当時は市立が全国に出ることが多かったですから。
 その話し合いの途中で、今まで苦労してきたことを話したら、監督が号泣されたんです。大人のそういう姿を僕はそれまで見たことがなかった。すごく温かい人なんだなと思いました。そして最後には“プロになるなら、オレのところへ来い!”と言ってくれたんです。監督の人柄に惹かれて、その日のうちに母親に“オレ、市立に行く”と言っていました」
 後日、徳島商業の関係者と会っても、藤本の気持ちは変わらなかった。

 同年代の選手との出会い

 高校1年の5月にJリーグが開幕する。ちょうど藤本が徳島市立への進学を決めたタイミングは、まさに日本サッカーが大きく変わろうとしている時期だった。逢坂監督に誘われて進学した徳島市立は冬の選手権で3年連続で全国大会へ出場した。同級生には柳沢敦(富山第一高・現京都)などキラ星のごとくスター候補生がひしめいていた。年代別の日本代表にも選出され、多くのライバルから刺激を受けた。「やはり日本は広いな」。藤本は同期の選手と接し多くのものを吸収していった。

 逢坂監督の言葉通り、全国に名が知れ渡った藤本にプロへの道が開いたのは高校3年の9月だった。ある遠征試合を福岡ブルックス(現アビスパ福岡)の強化担当者が観戦にきた。その試合の帰り道、高速のインターチェンジ近くで強化担当者、逢坂監督、母親、藤本の4人で話しあった結果、福岡への入団が決まった。小学6年の時に決めたプロになるという目標は6年後に達成された。

 しかし、多くの選手が抱くであろう喜びという感情は湧いてこなかった。「お母さんを楽にさせてあげたい」。この一心でサッカーに取り組んできた藤本にとって、プロ選手になることはあくまでも通過点でしかなかった。
「プロでサッカーが出来る喜びというよりは、お金を儲けて母親を楽にさせてあげる。本当に、それだけでした」
 藤本を支えてきたのは家族への思いだった。
「それがなかったら、たぶんプロにはなっていないと思います。(プロになるために)誰よりも練習した自信がありましたから」

 1996年1月12日、福岡は11名の新入団選手を発表し、その中に藤本がいた。ここから何章にも渡るストーリーが始まっていくことは、本人もまだわからなかったに違いない――。

(第2回へつづく)
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<藤本主税(ふじもと・ちから)プロフィール>
1977年10月31日、山口県生まれ。2歳で徳島県鳴門市に移り、小学2年時からサッカーを始める。鳴門第二中学から徳島市立高校へ進学し数多くの大会で活躍し、注目を集める存在となる。96年、アビスパ福岡に入団。3年目にはリーグ戦30試合出場6ゴールと主力として活躍。99年にサンフレッチェ広島へ移籍し、同年天皇杯ではクラブを準優勝へ導く。その後名古屋グランパス、ヴィッセル神戸を経て05年に大宮アルディージャへ移籍。J1昇格を果たしたばかりのクラブを中盤で支え続け、07年からは主将を務める。また、中学3年時から各年代の日本代表に選ばれ、01年7月1日パラグアイ戦でフル代表デビューし国際Aマッチ2試合に出場。Jリーグ通算347試合出場44ゴール(10年8月31日現在)。168センチ、68キロ。




(大山暁生)
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