アビスパ福岡でプロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせた藤本はプロの世界で結果を残すのに3年の年月を要した。
 特に2年目のシーズンは藤本にとって厳しいものだった。前年に最下位に終わった福岡は97シーズン、カルロス・オスカール・パチャメを監督として迎えた。藤本はこのアルゼンチン人指揮官との相性が悪く衝突してしまい、まるで干されたような状況におちいる。1年目は10試合に出場していたものの、翌年のリーグ戦出場はわずか1試合。それどころか練習中の紅白戦にも出場させてもらえない日々が続いたのだ。
 チーム練習に参加できない藤本に出来ることといえば、個人練習しかなかった。「ここで自分になかった武器を磨くしかない」。藤本は高校時代にも蹴っていなかったフリーキックの練習を繰り返した。「いつかチャンスはやってくる」と信じ、ゴールに向かってボールを蹴り続けた。

 悔しさを込めたJ初ゴール

 努力が報われたのが3年目のシーズン開幕戦、鹿島アントラーズとアウェーだった。前年にパチャメは成績不振で解任され、森孝慈が監督に就任していた。藤本は先発出場し前半24分、1年間で磨きぬいたフリーキックで直接ゴールネットを揺らし、Jリーグ初ゴールを記録した。

 藤本にはJリーグでゴールを決めたら必ずやろうと思っていたパフォーマンスがあった。もちろん“阿波踊り”である。しかし、悔しい思いをこめたシュートが決まった瞬間、彼の興奮は頂点に達していた。そのため、温めていたパフォーマンスを披露するのを忘れてしまったのだ。
 だが、挽回のチャンスはすぐにやってきた。後半18分にもこの日2点目となるゴールを決めたのだ。2年間ノーゴールだった選手が開幕戦でいきなり2得点の大仕事をやってのけた。もちろん、2点目が決まった後には“阿波踊り”を大勢のサポーターの前で披露した。今でも藤本の代名詞といえるパフォーマンスが誕生した瞬間だった。
「そりゃもう、この試合は覚えています。母親にも連絡しました。ドキドキしてしまって僕の試合はライブで観られないという人なんですが、喜んでもらえて嬉しかったです」
 プロに入って2年以上の月日が流れ、やっとのことで母親にJ初ゴールがプレゼントし、親孝行ができた。

 直訴の大阪遠征

 この年、6ゴールを挙げた藤本は福岡のJ1参入を置き土産にサンフレッチェ広島へ移籍する。藤本には大きな期待が寄せられていたものの、開幕からの3試合はベンチを温め途中出場に留まっていた。クラブも波に乗ることができず開幕から3連敗スタート。チーム全体に暗いムードがただよっていた。
 東京・国立競技場で行われた鹿島戦の試合後のことだった。「これから気分転換に遊びにでも行こうか」。そう思いスタジアムを後にしようとした藤本の前で、ある男が監督に直訴していた。
「今から大阪に向かわせてください」。言葉の主は森保一だった。

 クラブの予定では東京へ1泊し、翌日の新幹線で広島へ帰ることになっていた。しかし森保は翌日の昼に行われるサテライトチームの試合への出場を志願したのだ。森保も藤本同様、この日はベンチスタートだった。
 森保といえば、92年に日本代表監督へ就任したハンス・オフトに見出され、代表の中盤を支えた名ボランチだ。99年当時も広島の主力として活躍し、チームリーダーだった男が、遠征試合の宿泊予定もキャンセルして今から大阪へ向かうという。「チーム状況が悪い時にこそ、自分がなんとかしたい」。森保の熱い思いのこもった直訴だった。

 森保の言葉を聞いた藤本はハッとした。
「オレは何をやっているんだ」
 そして、迷うことなくこう口にした。
「オレも大阪に行かせて下さい」

 途中出場とはいえ、ナイトゲームに出場した選手が翌日のサテライト戦に出場を志願するのは通常では考えられない。しかも2人同時にだ。監督のエディ・トムソンは驚いたものの、2人の申し出を了承した。それだけでなく、普段はサテライトの試合を観戦することのないトムソンがわざわざ大阪まで足を運んだ。彼も2人の熱意に突き動かされたのかもしれない。
 ガンバ大阪とのサテライト戦で、森保は素晴らしい動きを見せた。ベテランの必死の姿に感化されるように、藤本も活躍をみせた。
 次節の浦和レッズ戦から森保は先発メンバーに復帰する。さらに藤本は途中交代ながら後半35分に99シーズン初ゴールを決めた。90分が経った時、スコアは4対1となっていた。広島がホームで浦和を下し、リーグ戦初勝利を手にしたのだ。その後、トムソン監督は森保と藤本をキックオフからピッチへ送り込むようになっていく。

 藤本は当時を振り返る。「あの出来事がなかったら、広島で定位置を確保できていたかわからない。いい流れを作りだしてくれたのは間違いなく森保さん。あのタイミングで活躍していなかったら、その後のサッカー人生は違ったものになっていたかもしれません」。
 大宮ではキャプテンとしてクラブを引っ張っている。この経験が今の藤本に生きている。
「僕のキャプテンシーのイメージは森保さんです。僕を大人にしてくれたというか……、影響を受けたことは間違いないですね」。
 11年前の国立のロッカールームでの出来事。森保の覚悟はオレンジ色のユニフォームを纏う藤本の根底に今もしっかりと受け継がれている。

(第3回へつづく)
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(写真:©1998.N.O.ARDIJA)

<藤本主税(ふじもと・ちから)プロフィール>
1977年10月31日、山口県生まれ。2歳で徳島県鳴門市に移り、小学2年時からサッカーを始める。鳴門第二中学から徳島市立高校へ進学し数多くの大会で活躍し、注目を集める存在となる。96年、アビスパ福岡に入団。3年目にはリーグ戦30試合出場6ゴールと主力として活躍。99年にサンフレッチェ広島へ移籍し、同年天皇杯ではクラブを準優勝へ導く。その後名古屋グランパス、ヴィッセル神戸を経て05年に大宮アルディージャへ移籍。J1昇格を果たしたばかりのクラブを中盤で支え続け、07年からは主将を務める。また、中学3年時から各年代の日本代表に選ばれ、01年7月1日パラグアイ戦でフル代表デビューし国際Aマッチ2試合に出場。Jリーグ通算347試合出場44ゴール(10年8月31日現在)。168センチ、68キロ。




(大山暁生)
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