99シーズンに在籍したサンフレッチェ広島ではリーグ年間順位こそ8位に留まったが、年末の天皇杯では準優勝の成績を収めた。4シーズン過ごした後、2003年に藤本は名古屋グランパスへ移籍する。23試合に出場したものの、さらなる出場機会を求めて翌年にはヴィッセル神戸へ。4つのクラブを渡り歩いた藤本にとって大きな財産になっていることがある。それは人との出会いだ。
「新人として入った福岡では都並(敏史)さん。広島では森保(一)さんがいて、名古屋では楢崎(正剛)さん。常に日本代表の一線で戦ってきた人から多くのことを学んで、刺激を受けてきました。素晴らしい先輩が常にいてくれたことが本当に大きかったです」

 そして、藤本は続けた。
「名古屋から神戸に移る時には、実は大分(トリニータ)に行くという選択肢もあったんです。でも、神戸にはカズさんがいましたからね。あの人の存在が、神戸に行くことを決心させたかもしれません」

 憧れの人の近くで過ごした至福の1年

 藤本が少年期から憧れ続けているのは、カズこと三浦知良だ。徳島市立時代、レギュラーでなかった1年の頃から、カズと同じ“背番号11”を懇願して自分の背中につけていた。高校を卒業するまで、その番号が変わることはなかった。プロに入ってからは2000年の広島から現在に至るまで11番を背負い続けている。
 ただ1年の例外は、04シーズンの神戸だった。この時の背番号は10。当時の神戸で11番をつけていたのは、誰あろうカズだったからだ。

 憧れの選手とともにプレーした時間を、藤本は「至福の1年」と振り返る。
「神戸ではつらい時期もありましたが、本当にたくさんのことを学ばせてもらいました。忘れられない1年です」
 カズのサッカーに対する姿勢はストイックの一言だった。自主トレに出かける時にも、必ず専属のシェフを同行させている。体のケアも人一倍神経を使っていた。
「みなさんがイメージする通りだと思います。サッカーに対する姿勢が本当に素晴らしいです」

 43歳となった現在も、カズは横浜FCでプレーを続けている。8月7日のファジアーノ岡山戦ではゴールを記録し、自身の持つJリーグ最年長ゴール記録を更新した。
 藤本は、今でもカズから多くの刺激を受けている。
「カズさんを見ていると、俺らも頑張らなきゃと思う。たぶん、今の日本代表でプレーしている選手とかも同じだと思いますよ。ゴールを決めた時に、みんながお祝いのメールを送っていたそうですからね。やっぱり日本のサッカー界を盛り上げる、一番のエンターテイナーですからね、カズさんは。サッカー選手みんなが認めている、そんな存在です」
 カズについて語る藤本の目の輝きは、少年時代の頃のそれと変わっていない。

 5つ目のクラブでの挑戦

 04シーズンは20試合に出場するも1得点に留まり、クラブの構想外となってしまう。レンタル移籍という形だったため神戸から名古屋へと戻ることも考えられたが、グランパスは藤本の放出を決めていた。そこで藤本に声をかけたのが05シーズンからJ1へ昇格する大宮アルディージャだった。

 大宮は99年にJリーグへ入会し、その後5シーズンはJ2でも4〜6位を行ったり来たりするクラブだった。しかし、04シーズンに三浦俊也が3年ぶりに監督へ復帰すると、アルディージャは上昇気流に乗った。シーズン終盤には12連勝を飾り自動昇格圏内の2位へと躍進し、一気にJ1昇格を決めた。

 残留争いに加わらない中位を目標に設定したクラブは、攻撃力の増強を図る。そこで、日本代表経験もある藤本に白羽の矢が立ったのだ。
 移籍が決まる前、藤本は大宮の練習場を訪れた。この時のことを今でもはっきりと覚えている。そこには“大きな驚き”があったからだ。
 大宮の練習場は埼玉県志木市の荒川の河川敷にある。大雨が降って川が増水すれば、練習場は水に浸かってしまうのだ。

「当時の強化部長だった佐久間(悟・現甲府GM)さんに連れられて、グラウンドにやってきました。その時に『ようこの施設で、J1に上がって来たな』と思ったんです。佐久間さんも『来たくなくなったでしょ?』と言われて、正直に『はい』と答えてしまうくらい、ビックリしてしまいました。

 でも、この施設でも頑張ってJ1へ上がってきた選手たちが本当にすごいと思ったし、クラブを支えてきたサポーターの方々の熱い想いを感じたんです。
 ここで頑張っているクラブを1年でJ2に落としてしまうことは残酷すぎるとすごく感じた。それで、少しでも自分の力でクラブに貢献したいと思って、大宮に決めたんです。
 あの時の決断は、本当に意義のあるものでした」

 J2からJ1へ昇格して、1年で逆戻りした例は枚挙にいとまがない。「大宮に同じ思いはさせたくない」。この一心で、藤本は05シーズンの戦いに挑んだ。
 大宮は第22節から28節までで7連敗を喫し、この時点でJ1・J2入れ替え戦に回る16位まで順位を下げた。しかし、連敗をストップさせた29節から最終節までを4勝1分け1敗で乗り切り、J1・1年目の13位でシーズンを終えた。

 藤本は29試合に出場し4ゴールを挙げ、経験の少ないクラブを牽引した。特に29節の柏レイソル戦、30節の名古屋戦とクラブの浮上のきっかけとなる試合でゴールを挙げている。
「クラブのために貢献したい」。その一心で新天地での戦いに挑んだ藤本は、見事に任務を遂行し、大宮はJ1残留を果たしたのだった。
 周知のとおり、この後もクラブがJ2に降格したことはない。6年前に藤本が胸に秘めた想いは、今も実現しつづけている。

(最終回へつづく)
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<藤本主税(ふじもと・ちから)プロフィール>
1977年10月31日、山口県生まれ。2歳で徳島県鳴門市に移り、小学2年時からサッカーを始める。鳴門第二中学から徳島市立高校へ進学し数多くの大会で活躍し、注目を集める存在となる。96年、アビスパ福岡に入団。3年目にはリーグ戦30試合出場6ゴールと主力として活躍。99年にサンフレッチェ広島へ移籍し、同年天皇杯ではクラブを準優勝へ導く。その後名古屋グランパス、ヴィッセル神戸を経て05年に大宮アルディージャへ移籍。J1昇格を果たしたばかりのクラブを中盤で支え続け、07年からは主将を務める。また、中学3年時から各年代の日本代表に選ばれ、01年7月1日パラグアイ戦でフル代表デビューし国際Aマッチ2試合に出場。Jリーグ通算347試合出場44ゴール(10年8月31日現在)。168センチ、68キロ。




(大山暁生)
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