2010年サッカーW杯では“サムライブルー”が国外開催の大会では初めて決勝トーナメントに進出しました。さらに今年の女子サッカーのW杯では“なでしこ”が並みいる強豪を倒し、初優勝に輝きました。こうした日本代表の実績もあいまって、日本では「サッカーのW杯」はオリンピックに並ぶ人気を誇っていますね。では、記念すべき第1回大会が日本で開催されたサッカーのW杯があることを皆さんはご存知でしょうか。実は今から4年前の07年、電動車椅子サッカーのW杯が日本でその歴史をスタートさせたのです。
(写真:今年11月、第2回W杯がフランスで行なわれた)
 電動車椅子サッカーは、その名の通り、電動車椅子を使って行なうサッカーです。電動車椅子の前の足元の部分には、フットガードが取り付けられています。プレーヤーは手やアゴなどでコントローラーを操作して車椅子を動かし、フットガードに直径32.5センチのボールを当てながらゴールを狙います。1チームは4名(フィールドプレーヤー3名、ゴールキーパー1名)で、バスケットボールのコートを使用して行なわれます。スピード感があり、とてもエキサイティングな競技です。

 フィールドは“命の現場”

 この電動車椅子サッカーを世界へ広げようと尽力してきたのが、現在、日本電動車椅子サッカー協会(JPFA)の会長を務めている高橋弘さんです。高橋さんは日本選手権大会で優勝、1999年にはMVPを獲得するなど、非常に優秀なプレーヤーです。しかし、当時はまだ世界大会はなく、日本の頂点を極めた高橋さんは目指すものがなくなってしまいました。そこで、世界一を決める舞台が欲しいと、米国や欧州など、世界の有志たちと一緒にW杯開催を目指し始めました。それが1999年ですから、実に8年の歳月をかけて実現へと漕ぎ着けたのです。これは電動車椅子サッカー界にとっては、大変大きな出来事だったことは言うまでもありません。競技者であれば、誰でも頂点を極めたいと思うもの。地域でトップになれば、次は日本一を目指し、日本の頂点に立てば、自ずと世界一の座に思いを馳せる。それは障害の有無に関係なく、人間の本質によるものです。今、電動車椅子サッカーには高橋さんたちの尽力によってW杯がある。つまり、目指すべき世界の舞台が用意されているわけです。この世界の舞台があるのとないのとでは、競技者に与える影響は全く違います。

 さて、私がこの競技に深く関わり始めたのは8年前の03年のことです。その年、応援していた金沢ベストブラザーズという電動車椅子サッカーチームがブロック大会で優勝し、全国大会へとコマを進めました。ところが、大会に行くことができない選手がいたのです。聞けば、その選手が抱える障害によって体調が悪化し、主治医から長距離移動や外泊の許可がおりなかったのです。そのため、地元での予選には出場できたものの、金沢から遠く離れた大阪での全国大会には出場することができませんでした。そこで私は彼がたとえ出場できなくとも、チームの活躍を見てもらいたいという思いで、会場から生中継を行なったのです。それが現在行なっているインターネットライブ中継『モバチュウ』の始まりです。実は、この競技は脳性麻痺や筋ジストロフィーといった重度障害をもつ人の競技であることから、先の選手のように大会に出場できなくなったりすることは珍しいことではありません。さらに言えば、筋ジストロフィーの選手は若くして亡くなることが多いため、この競技の大会では必ずといっていいほど、開会式の際には黙とうが行なわれます。

 当初私が最も驚いたのは、試合中にぶつかった衝撃で人工呼吸器が外れてしまい、その場でパタッと倒れてしまった選手がいたことです。もちろん、すぐに試合は中断。人工呼吸器が取り付けられ、その選手は一命をとりとめました。驚いたのはここからです。「あぁ、よかった」と胸をなでおろしたのも束の間、すぐに試合が再開されると、今、命をつないだばかりの選手が休むこともなく、そのままプレーを続行したのです。しかし、考えてみれば、彼らには時間がありません。いつプレーができない体になるか、いつまで生きていられるか、という中で彼らはプレーをしているのですから。だからこそ、できる時に精一杯やりたいという気持ちは誰よりも強いのでしょう。ここまで人を熱中させてしまうスポーツ。命が絶たれるぎりぎりまでしていたいと思うスポーツ。彼らを見ていると、改めてスポーツの限りない魅力を感じることができるのです。

 世界大会の重要性

 しかし、重度障害者のための競技であるからこそ、電動車椅子サッカーでは世界を目指すことができなくなった選手もいます。今年11月、フランスで第2回W杯が開催されました。優勝候補だった日本ですが、結果は5位。前回大会を下回る成績に終わりました。敗因のひとつは、若手の主力選手が出場できなかったことが挙げられます。彼の名は城下歩。若干18歳の選手です。彼は骨形成不全症という障害があり、骨が折れやすいため、激しい運動をすることができません。そこで、始めたのが電動車椅子サッカーでした。幼少時代からこの競技に慣れ親しんできた彼は、日本の電動車椅子サッカー界ではまさにホープだったのです。

 実は城下選手は4年前、日本で第1回大会が行なわれた際にも日本代表の強化選手として合宿などに参加していました。その頃から豪快で鋭いパスやシュートには定評があり、代表でも主力になれるほどの実力がありました。しかし、大会直前に決定した16歳以上という規定から13歳の彼は出場することができなかったのです。「4年後には……」という思いは本人はもちろん、日本の電動車椅子サッカー界の関係者には皆、あったことでしょう。

 ところが、彼は今回も出場することを認められなかったのです。理由は今大会からクラス分けが導入され、審査の結果、彼は障害が軽度で、電動車椅子サッカーには不適格と判定されたからです。電動車椅子サッカーはあくまでも重度障害者のための競技であり、この競技の公平性を保つために、国際的に障害の度合いに規定を設けたのです。それに外れてしまったのが城下選手でした。確かに彼の身体の可動域は、他の選手と比べると広い。とはいえ、先述したように、骨折を誘発するような激しい運動はできません。しかし、クラス分けの審査は今現在、どのくらい動けるかということに焦点を置いていますから、そういう意味では城下選手はやはり不適格と言わざるを得ないのです。

 このクラス分けは、理にかなっており、決して間違いではありません。城下選手は不運にも、時代の流れの犠牲者となってしまった。ただ、それだけなのです。しかし、ずっと日本代表で世界一になることを目指してきた彼にとっては、あまりにも残酷だったに違いありません。もう、彼がこの競技でプレーヤーとして世界一を目指すことはできなくなったのですから……。目標を見失った彼は、どうするのだろうか。私はそれが心配でなりませんでした。しかし、それは杞憂に終わりました。

 帰国後、彼からこんなメールが届いたのです。
<ただいまです。ワールドカップ無事に終えることができました。代表にとっても、自分自身にとってもまだまだ課題が残る形でしたが収穫もありました。国際交流を通して海外にもたくさん友達を作ることができました。
今回のクラス分けには自分も納得がいきません。でも自分を偽ってでも試合に出たいとも思えませんでした。自分が未熟なのかもしれないけど、嘘をつくのはアスリートの精神に反すると思うからです。海外にはこいつも引っ掛かっているのでは?と思う選手もいましたが…実技審査で引っ掛からないということは大丈夫なのでしょう…。
でも、過信ではなく自信ですが自分が出ていれば間違いなく日本は世界一をとれていたと思います。それを考えると大変悔しいのですが…。
次の4年後に向けて、自分は代表のコーチングスタッフを目指したいと考えています。
世界を経験した人はまだまだこの協会には非常に少ないです。だから、自分が今回経験したことは自分にとっても、日本にとっても貴重なものだと思います。
それをいかしていきたいし、4年後にまた会おうとも約束してきましたし。
本当に行ってよかったと思えるワールドカップになりました。そうなったのも、快く送り出してくださった日本のみなさんのお力添えがあってこそのものでした。本当にありがとうございました。>

 繰り返しになりますが、これを書いた城下選手は若干18歳の高校3年生です。とてもプレーヤーとしての将来が閉ざされた18歳のメールとは思えません。しかし、彼がこのように気持ちを整理し、コーチングスタッフとして世界の頂点を極めるという目標をもつことができたのは、やはり電動車椅子サッカーにW杯という世界最高峰の舞台があるからこそなのです。もし、国内で終わってしまう環境であるとしたら、プレーヤーとしての道を閉ざされた彼が、このようにすぐに気持ちを切り替えることができたかどうかは疑問です。もしかしたら、「もう、スポーツはいいや」と投げやりになってしまったかもしれません。そう考えると、18歳の少年に、これほどの決断を促したW杯という存在が、いかに偉大であるかがわかります。
 今回私は障害者スポーツ競技に、世界に通ずる道があることの重要性を18歳の日本代表から改めて教えてもらいました。今後さらに多くの競技に世界最高峰の舞台が用意されることを願ってやみません。


伊藤数子(いとう・かずこ)プロフィール>
新潟県出身。障害者スポーツをスポーツとして捉えるサイト「挑戦者たち」編集長。NPO法人STAND代表理事。1991年に車椅子陸上を観戦したことがきっかけとなり、障害者スポーツに携わるようになる。現在は国や地域、年齢、性別、障害、職業の区別なく、誰もが皆明るく豊かに暮らす社会を実現するための「ユニバーサルコミュニケーション活動」を行なっている。その一環として障害者スポーツ事業を展開。コミュニティサイト「アスリート・ビレッジ」やインターネットライブ中継「モバチュウ」を運営している。2010年3月より障害者スポーツサイト「挑戦者たち」を開設。障害者スポーツのスポーツとしての魅力を伝えることを目指している。11年8月からスタートした「The Road to LONDON」ではロンドンパラリンピックに挑戦するアスリートたちを追っている。