ザックジャパン初の欧州遠征が近づいてきた。10月12日にフランス・サンドニでフランス代表と、16日にポーランド・ヴロツワフでブラジル代表と対戦する。対世界におけるザックジャパンの力量が試されるというわけだ。

 これまで日本代表にとって欧州遠征は転換期となってきた歴史があり、選手個々の成長を促すきっかけにもなっている。最も衝撃だったのが、2001年3月にフランスと戦い、0-5と完膚なきまでに叩きのめされたあの“サンドニの悲劇”である。

 今は亡き松田直樹はよく言っていたものだ。「アイツは俺を笑いながら抜いていったんだ」と――。

 アイツとは当時のエースのティエリ・アンリだ。雨の降り注ぐスリッピーなピッチに足をすべらせてしまうトルシエジャパンをあざ笑うように、本気のフランスは日本の守備網をズタズタに切り裂いていった。

 このとき、フラット3の中央でプレーした松田は開始早々、ペナルティーエリアに入ってきたロベール・ピレスを強引に止めようとしてPKを与えてしまった。

「(キャプテンマークをつけている)自分がしっかり止められれば、周りも自信がつくと思って」と体を思い切り寄せたのだが、PKと判断されて失点を喫したことで逆にチームは浮き足立ってしまった。

 右サイドでプレーした明神智和も、あの試合の衝撃を今も覚えている。

「対面は(クリストフ・)デュガリーだったんですけど、触れなかったですね。すべて逆を取られてしまっていたというか。雨でピッチがぐちゃぐちゃになっていても、デュガリーは固定式のスパイクで、別に気にすることなくやっていました。試合後、マツさんとも“俺たちもっと練習やんなきゃ”って、そんな話をしたと思います」

 この屈辱の敗戦が、個々のプライドを激しく刺激した。松田はピレスにPKを与えてしまったシーンの写真を雑誌から切り抜き、自宅のリビングに貼り付けた。

「見えるところに貼っとけば嫌でも目に入ってくるじゃないですか。もっとやんなきゃなんねえなって思えるんですよ」
 彼はそう言って、発奮の材料としていたのだ。

 松田や明神をはじめ、サンドニで屈辱を味わったメンバーたちがそれぞれレベルアップを図ろうとしたことで、翌年のコンフェデレーションズ杯では準優勝の成績を収めた。決勝で対戦したフランスとのリベンジマッチは0-1で敗れたものの、手ごたえを感じた選手は少なくなかった。サンドニの悲劇を経験したからこそ、日韓W杯でのベスト16進出があったと言ってもいいだろう。

 強豪とアウェーで戦うからこそ、チームの現在地が分かるというもの。南アフリカW杯前に岡田ジャパンの課題を映し出したのも、欧州遠征だった。

 09年9月のオランダ遠征。前線からの激しいプレッシング、攻撃では細かいパスワークを信条としていた岡田ジャパンはそのままオランダにぶつかり、0-3の完敗に終わった。後半になって運動量が落ちながらも、岡田は6枠ある交代カードを3枠しか使わなかった。公式戦と同じ条件で戦ったうえで、足りないものを見つけようとしたのだ。

 指揮官はこう言っていた。
「内田(篤人)がバテているのは実際分かっていた。だけど、勝負のときにサイドバックを交代させる余裕なんてない。1-0で終わらせたいのであれば代えたほうがよかったかもしれないけど、内田には分かってもらいたかった。

 正直に言えば、チーム全体でプレスをもっとかけたところで徹底的にやられると思っていた。もっとボールキープされて、前半持つかどうかぐらいに考えていたんです。だけど、プレッシャーをかけたらオランダってこんなにボールを回せないのか、と思った。前半の終わり10分ぐらいからは回されたけど、“そうか、オランダでもこのぐらいか”と。

 あとは最後のゴール前のところが足りないということもはっきり分かったし、本番でこいつらに勝つのは並大抵のことじゃねえな、と正直強く感じた。でも、思った以上にできるんだという手ごたえも感じることができた」

 欧州に出向いてオランダと戦い、岡田は多くの情報を手にすることができた。ただ、彼にしてみれば、W杯まであと9カ月と迫った時期ではなく、もっと早いタイミングで戦って情報を得たかったというのが本音だっただろう。

 今回はブラジルW杯まであと2年という時期で、タイミングもいい。欧州、南米の強豪とそれぞれ戦えるという意味でも大きい。スピーディーなパス回しを武器にリスクマネジメントもこなすザックジャパンのスタイルが、フランス、ブラジル相手にどこまで通用するか。

 世界の強豪相手にどう戦えばいいか、チームとしても個人としても、そのヒントをしっかりと手にしてもらいたい。ザックジャパンの今後を占う意味においても、重要な欧州遠征になる。

(この連載は毎月第1、3木曜更新です)


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