1976年4月20日、安永聡太郞は山口県宇部市で生まれている。

 最初の転機となったのは、中学3年生のときだったという。

 

「全国9地域から集まる、地域ユース対抗戦という大会があったんです。ぼくはまず中国地方代表として中3の5人の中に選ばれた。大会を行った後、東西対抗戦という形で、それぞれ16人の選手が選ばれた。両チームには中学生が2人ずつ入っていた。ぼくは大会では活躍していなかったんですけれど、選抜に入れて貰った。当時は、国見(高校)の小嶺(忠敏)さんがアンダー17の監督で力があった。小嶺さんはぼくのことを可愛がってくれていたので、入れたんだと思います」

 

 86年度、国見高校は長崎県代表として高校サッカー選手権に初出場、準優勝という結果を残した。高校選手権では翌87年度に初優勝を成し遂げている。

 

 山口県は本州ではあるが、九州と接している。近隣県ということもあり、安永は早くから小峯に目を掛けられており、中学卒業後は国見高校へ進学することになっていた。

 

「ユース対抗戦に出ているのは、高1、高2。ぼくからしたら基本、(年が)上じゃないですか。その選抜の試合で、ぼくは3点取った。試合は4対2で勝ったはず。同じウエストに平野孝がいたんです。それで(清水商業の)大滝(雅良)先生に“中国地方に安永っていう化け物がいました”という話をしたらしいです」

 

 平野は安永より2つ年上にあたる。後に清水商業から名古屋グランパスエイトに加入。日本代表にも選ばれている。

 

 大滝に率いられた清水商業は85年度に高校選手権で初優勝を飾っている。教え子の中には風間八宏、藤田俊哉、名波浩などがいた。

「大滝先生から自宅に電話があったんです。“清水商業の大滝と申しますが、話を聞いてもらえないでしょうか”と。大滝先生が家まで来て、父親と話をしたんです」

 

 大滝はこう説得したという。

――国見高校も確かに名門です。しかし、強豪校と練習試合をするためにバスに乗って出かけなければなりません。しかし、自分たちは待っていれば練習相手がやってくる。なぜならば清水はサッカー王国だからです。清水はサッカーの中心です。どうせサッカーをやるならば、中心でやったほうがいいのではないですか。

 

「ぼくよりも親父の方が(大滝の話に)引き込まれていました。国見の青と黄色のストライプのユニフォームは憧れではあったけど、静岡という王国から誘われたことは大きかった。ただ、小嶺さんから誘ってもらった恩義があるというので悩みました。すると父親が“俺が(小嶺に)謝ってやるから行け”と。父親がぼくの人生の選択に口を出したのは、この1回だけでした」

 

 安永は初めて清水商業の練習に参加した日のことを今も良く覚えている。

 

 この日まで大滝は安永のプレーを1度も見たことがなかった。わざわざ山口県まで行って獲ってきた安永がどのようなプレーをするのか見たいと考えたのだろう。紅白戦でレギュラーチームの中に入れた。

 

「自分が(運を)持っているなーと思うのは、そこで2、3点取ったんです。当時、清商のレギュラーチームは(紅白戦で)赤ビブスだったんですけど、3年間赤ビブスを1回も脱がなかった。ただ、こうも思うんです。他の1年生と同列に並ばされて、自分が上がって行けたかというと難しかった。(上級生の)2年、3年生にも選抜でやっていた人はいっぱいいたから。スタートで上手く(チャンスを)掴めたので3年間(試合に)出続けることができた。本当に楽しい3年間でしたね」

 

 安永は2年生のとき、高校選手権、全日本ユース、3年生のときに高校総体と全日本ユースで優勝している。

 

ラモン・ディアスの目に留まり、マリノスへ

 

 高校3年の夏前、安永はサンフレッチェ広島から誘われて、入団の返事をしていた。

 

「俺、山口(県出身)だったから、元々はサンフレに行くつもりだったし、“行きます”って言っているんですよ。契約書は交わしていないですけど、口約束で行こうと思っていました」

 

 ところが――。

 

 安永はゼネラルマネージャーだった今西和男から「お前は右ウィングバッグとして考えている」と言われたのだ。

 

「ええーって、感じですよ。高校ではそこそこのストライカーだと思っているのに、サイドバックなんだと思った。それでサンフレに行くのをやめたんです」

 

 その頃、安永は横浜マリノスからも誘いを受けていた。

 

「清商は強かったので、マリノスのサテ(ライト)としょっちゅう練習試合をしていた。それで、うちが勝っていたんですよ。マリノスのスカウトの人が、俺のプレーを見たラモンが“あいつ、いいぞ。絶対に獲るべき”と言っていたと教えてくれた。“ラモンが育てたいと言っているから”と誘われて、コロッと落ちました」

 

 ラモンとはもちろん、元アルゼンチン代表のフォワード、ラモン・ディアスのことだ。

 

 1959年、ラモン・ディアスはアルゼンチンのラ・リオハで生まれた。名門リーベル・プレート所属の彼の名前が世界中に知られることになったのは、79年に日本で行われたワールドユースだった。ディエゴ・マラドーナと共に出場、アルゼンチン代表を優勝に導いた。翌年、アルゼンチン代表に招集、82年のワールドカップ・スペイン大会にも出場している。Jリーグ初年度の93年シーズンから横浜マリノスでプレー、初代得点王になった。左利きの決定力あるフォワードだった。

 

 安永はスカウトからラモン・ディアスのサイン入りのユニフォームを渡されたという。

「うん、その場で握手ですよ、単純ですから、“マリノスに行きます”って。本当かどうか知らないけど、あの頃のラモンから育てたいと言われたら断れないでしょ」と、彼は楽しそうに笑った。

 

「(相手のディフェンダーを)飛び込ませない間の作り方。本当に巧い。あのレベルの選手はもう日本には来ないのが残念。今の選手は知らないだろうけど、マリノスの歴代ゴール集見ても、ラモンは本当に凄いよ」

 

 しかし、プロ入り後、このクラブに入ったのは失敗ではなかったかと、安永は考えるようになる――。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

 1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。
著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)など。最新刊は『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com

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