スポーツコミュニケーションズが提供する人気コラム「INSIDE格闘技」執筆者の近藤隆夫氏が集英社インターナショナルより『プロレスが死んだ日。』を刊行しました。今回は発売を記念し、当HP編集長の二宮清純とのスペシャル対談を企画。本作の見所などを伺いました。

 

二宮清純: 『PRIDE1』のヒクソン・グレイシー×髙田延彦戦から、今年で20年が経ちましたね。

近藤隆夫: そうですね。早いものです。20年前とは格闘技界の風景も大きく変わりました。今はMMA(総合格闘技)がひとつのジャンルとして確立されていますが、20年前は、まだそうではありませんでしたからね。「プロレスvs.グレイシー」「UWFvs.グレイシー」といった異種格闘技戦的雰囲気が漂っていました。

 

二宮: UFC……当時はアルティメット大会と日本で呼ばれていましたが、その大会が始まったのは1993年11月でしたね。僕はたまたま渡米していた時で向こうのテレビで観ました。

近藤: そうでしたか。ヒクソン×髙田戦が行われたのは、それから約4年後ということになります。今ではリアルファイトしての総合格闘技と、肉体エンターテインメントであるプロレスの棲み分けがハッキリとしていますが、97年の時点では、そうではありませんでした。20年前の『PRIDE1』を振り返る時、ヒクソンが勝つと誰もが思っていたかのように言われますが、実際、そんなことはなかったんです。東京ドームに集まったのは、ほとんどがプロレスファンで髙田に大きな期待を寄せていたんです。プロレスに対する最強幻想が根強く残っていたんですよ。でもヒクソンが髙田に完勝したことで、プロレス界と総合格闘技界のパワーバランスが逆転しました。試合内容はともかく、ヒクソン×髙田戦が歴史的一戦であったことは間違いない。ですから、あの試合のことは、その裏側を含めて書き留めておきたいと、ずっと思っていました。

 

二宮: 『プロレスが死んだ日。』なかなか衝撃的なタイトルですが、ここには『PRIDE1』のことだけが書かれているわけではない。そこに至る経緯、あるいは以降の格闘技界の状況、そしてヒクソンについての秘話が紹介されています。

近藤: はい。『プロレスが死んだ日。』の主人公は、ヒクソン・グレイシーになるのかもしれません。ヒクソンの強さについて触れる時、グレイシー柔術のテクニックの優位性が必ず挙げられますが、それだけではない。格闘技に対する真摯な姿勢と強いメンタリティこそが彼の強さを築いていると思うんです。ヒクソンはフェイクを徹底して嫌いました。かつてプロレスのリングで行われた異種格闘技戦では著名な格闘家が負け役を演じることが多くあったんですね。ヒクソンのもとにも、そんなオファーはありましたが彼は、いくらファイトマネーを積まれても、「それだけはできない」とフェイクを敢然と拒否した。そのことが、日本のプロレス界の在り方を大きく変えたと思っています。

 

二宮: そのこだわりは、グレイシー一族の誇りでしょうか。

近藤: 彼の父・エリオの影響がとてつもなく大きいと思います。エリオが闘っていた時代には、プロのバーリ・トゥード(何でもありの闘い)においてもフェイクが稀に存在していたそうです。それをエリオは絶対に許さないという姿勢を貫いた。そのことをヒクソンだけでなくホリオン、ホイラー、ホイスら息子たちの中に強く伝わっているのだと思います。

 

二宮: 2戦目の『PRIDE4』の前にヒクソン・グレイシーの体調についても触れていますね。まさか試合前に腰を負傷していたとは……。

近藤: 私はあの試合のテレビ解説を務めたのですが、私もヒクソンのコンディションが悪いことには、気付いていませんでした。ヒクソン本人もセコンド陣も隠し通していましたから。私が知ったのもヒクソンが現役を引退した後なんですよ。現役の間は絶対に弱みは見せたくなかったのでしょう。引退を発表した後に本人から当時の状態を聞かされたんです。ヒクソンも髙田さんもすでに引退しています。時代は変わりました。当時を知る人ももちろんですが、当時を知らない若いプロレスファン、格闘技ファンにもぜひぜひ、『プロレスが死んだ日。』を読んでもらいたい。そして20年前の熱き日のことを知ってもらいたいと思います。

 

『プロレスが死んだ日。』

〇1章 嵐の船出

〇2章 「プロレス体験者」

〇3章 1988 リオ・デ・ジャネイロ

〇4章 グレイシーvsUWFインター

〇5章 山籠り

〇6章 「冷たい雨」

〇7章 再戦

〇8章 フェイク

〇9章 息子の死を乗り越えて

(集英社インターナショナル/定価:1600円+税/近藤隆夫著)