山陽特殊製鋼、四国電力、日清食品グループと実業団3社を渡り歩いた渡邊和也。2017年春に日清食品グループとの契約が更新されないことが分かっても、陸上を続けることに迷いはなかった。高校生の頃から「指導者になりたい」との想いもあり、選択肢は実業団だけでなく大学も入れていた。

 

 16年夏、渡邊は「指導者としても人としも憧れている」という日清食品グループの保科光作コーチ(現慶應義塾大学競走部コーチ)に相談すると、東京国際大学駅伝部の松村拓希コーチを紹介してもらった。松村コーチもかつて日清食品グループに在籍しており、退社後に筑波大学大学院へ進み、指導者となった経歴を持つ。

 

 渡邊は東京国際大の練習や合宿も見学した。東京国際大駅伝部は創部してから10年も満たない。歴史は浅いが1周400mの全天候舗装トラックに加え、クロスカントリーコースも併設している。トレーニング施設は充実しており、「走る環境はすごく良いなと思いました」と、渡邊も入学に前向きだった。

 

 加えて「大志田(秀次)監督の人柄に惹かれた」ことも大きかった。創部から東京国際大の指揮を執る大志田監督は、就任5年目で同大を東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)初出場に導いた。中央大学コーチ時代には、箱根駅伝総合優勝も経験するなど、その指導力は折り紙付きだ。渡邊は秋に入学を決断。社会人入試を経て、翌年の春に晴れて大学生となった。

 

 一方、大志田監督はチームに当時29歳のランナーを受け入れる不安はなかったのか。指揮官はかぶりを振って、こう答えた。

「“大学に来てまで何をするのか”“その先に何を見ているか”というところが一番大事でした。変な話4年間レースに出られないかもしれない。それでもキャリアを積んだ彼のような選手が、“将来の何かを見つけたい”と大学を選ぶのであれば、その手助けをしたいと思ったんです」

 

 東京国際大側の受け入れ態勢が整っていたことも大きかったが、渡邊が関西出身で明るいキャラクターなことも幸いした。“3学年上の先輩”でキャプテンを務める鈴木聖人はこう証言する。

「和也さんの入学前はどういう人かわからなかったので、少し不安な面もありました。でもコミュニケーションをしっかりとってくれたので、仲が良くなってからは不安もなくなった。今はもうチームメイトの一員です」

 

 大志田監督も「和也は人が近寄れないタイプじゃなくて、近寄ってくるタイプ。彼の性格に助けられましたね。他の学生が質問をすれば、いろいろなかたちで答えてくれる。冗談も言うし、彼の気質はありがたかったなと思いますね」と語れば、松村コーチも口を揃える。

「和也は1年生ということもありますが、下級生と仲良くできている。彼は謙虚に自分の立場を自覚して、実績としては他の学生より全然上でも、そんなところを出さないで1人の大学生として過ごしている。トップレベルで戦っていたアスリートが黙々と努力する姿も見ているでしょうし、彼が入ったことのネガティブなところはないですね」

 

 復活への助走

 

 渡邊は実績があるとはいえ、ケガ明けの選手に変わりはない。満足にトレーニングを積めていなかったこともあり、まずは身体を絞ることを求められた。体重を絞っていく作業の中で、ヒザを痛めたこともあった。「もどかしいんだろうなというのは表情から見て取れました」(松村コーチ)。夏合宿の時点ではBチームだった。

 

「箱根駅伝に向けては当然、Aチームが主体となる。監督もそうおっしゃっていたので、不安はありました」と渡邊。7kg前後体重を落とし、身体が戻ってきたこともあって、コンディションは徐々に上がっていった。

 

 Bチームの練習を見ていた松村コーチも変化をつぶさに感じていた。

「夏合宿は控えめな感じで練習していた。自分の走りが戻らないもどかしさの中で引っ張れるほどの力が戻っていなかった。それが8月後半からガラッと変わってきました。練習でもチームを引っ張るようになった」

 

 キャプテンの鈴木も同時期、渡邊と同じBチームにいた。

「夏前までは和也さんも故障があって、全然走れてなかった。“予選会も間に合わないのかな”と思っていたんですが、夏合宿後半から一気に距離走もできるようになって走りが戻ってきました」

 Bチームを引っ張る渡邊に感化されて、鈴木も調子を上げていった。9月の山梨県・西湖での合宿では渡邊、鈴木共にAチームへ昇格を果たした。

 

 Aチームに合流してからもトレーニングについていった。10月の箱根駅伝予選会では渡邊がチーム9番目、鈴木が8番目。2年ぶりの箱根駅伝出場に貢献した。12月13日発表された16名のエントリー選手に両名は選ばれた。

 

 枯れない気持ち

 

 箱根駅伝予選会を通過ラインギリギリの10位で通過した東京国際大。前評判は決して高くない。本選で上位10校以内に入れば、来年度の出場権を自動的に得られる。いわゆるシード権獲得が現実的な目標だ。

 

「流れをつくる前半区間を担いたい」という渡邊は往路での1~3区を希望する。前半であれば他大学の選手と競り合いになる確率は高い。持ち味の負けん気で食らいつき、ラストのスパート勝負に持っていきたいところだろう。

 

「出るからにはチームに貢献できる区間順位で前の走者に渡したい」と語る渡邊だが、チームへの助けとなっているのは走りだけではない。「みんなと励まし合いながら練習を積めたのはすごく助かりました。他の選手からアドバイスを求められれば、何か助けになれたらなと思っています」。渡邊の助言により、タイムを大きく伸ばした選手もいる。「本人の力が一番。自分のおかげだとは思っていません」と謙遜するが、「それでも『渡邊さんのおかげです』と言ってもらえたのはうれしかった」と自らの活力にも繋がっている。

 

 指導者を志し、大学に入ったとはいえ、競技者としての夢を諦めたわけではない。「もう一度、日の丸をつけて走りたい想いもあります」。2020年東京五輪は大学4年生で迎えることとなる。世界選手権の出場は経験したが、オリンピックの舞台はまだ立てていない。

 

 現在、30歳。気持ちが枯れる様子は見られない。陸上界では30代になってから花開く選手もおり、渡邊も刺激を受けている。

「年齢は全然気にしていません。自分より年上でも活躍している選手はたくさんいます。仲の良い1学年上の横浜DeNAランニングクラブの室塚(健太)さんが東日本実業団対抗駅伝で区間賞を獲られていたので、すごく励みになり、“自分もまだまだやれる”という気持ちはあります」

 

 2歳上の兄と比べられるのは嫌で、“消去法”で始めた陸上競技。気が付けば、20年近く続けている。ケガに泣いたこともあるが、歩みを止めることはなかった。そこまで惹き付けられる魅力は何なのか。渡邊は「たまに聞かれるのですが、自分でもよくわからなくて」と苦笑する。「シンプルできつい競技」を無我夢中で駆け抜けてきた。それは“強くなりたい”“速くなりたい”という無垢な想いで、厳しい練習や逆境を乗り越えてきた。箱根の山を越えた視線の先は、取り戻したい日の丸がある。

 

(おわり)

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渡邊和也(わたなべ・かずや)プロフィール>

1987年7月7日、兵庫県生まれ。中学1年で陸上を始める。報徳学園高を卒業後、2006年に山陽特殊製鋼に入社。10年に四国電力、13年に日清食品グループへ移籍した。08年5月に1500mで日本歴代2位の3分38秒11をマーク。11年6月には5000mで日本選手権初優勝を果たす。同年の世界選手権に出場。今年4月より東京国際大学に入学した。身長172cm、体重54kg。

 

(文・写真/杉浦泰介)

 

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