2月に入り、プロ野球ファンの心躍る時期になってきた。間もなく始まる新しいシーズンに向けて、各球団が一斉にキャンプ地へと入り開幕へ向けて始動する。
 新シーズンに備えるのは選手やファンだけではない。1月下旬、寒空の神宮球場にはセ・パ両リーグの審判団が集結していた。プロ野球を支える彼らも着々とトレーニングをこなしている。
 ウォーミングアップのランニングを終えると、男たちは整列した。
「アウトー!」「セーフッ!」「タイム!!」
 何十人ものプロ野球審判が一斉にコールを練習する様は圧巻だ。試合をコントロールするために、彼らは毅然とした態度で判定を下さなければならない。1プレーが試合の行方を大きく左右することもあるのだ。審判とはそれだけ責任の大きな仕事である。

 球場の外まで聞こえるのではないかという審判団のコール。その中でも一際通る声でコールする男がいた。
 パ・リーグ審判として、今年で10年目を迎える津川力だ。
 審判としてのキャリアは多くの先輩たちに及ばないものの、すでに日本シリーズの審判団に加わった経験もある。同僚からも厚い信頼を獲得している津川は、甲子園でホームランを放ったこともあるスラッガー、さらには元プロ野球選手でもあるのだ。

 父の薦めで南国・土佐へ

 津川が野球に初めて取り組んだのは小学校3年の頃だ。遊びたい盛りの少年が、バットとグラブを手に取った理由は「周りの友達が始めたから」だった。ノンプロまで進んだ父親の薦めで新宿にあるリトルリーグへ入団した。津川が住んでいたのは東京都北西部にある東久留米市。リトルリーグの練習場所は23区内ではあったが、週に3回ほど電車に揺られながら、練習場へ通った。チーム自体はそれほど強くはなかったが、津川にとって仲間と一緒に野球に取り組む日々は楽しいものだった。

 中学校へ上がる頃、津川は父親からある話をされた。
「真剣に野球へ取り組むのなら、中学校はここへ行け」
 津川が高知県にある明徳義塾という学校を知ったのは、この時だった。
「自分から行くという感じではありませんでした。将来を考えるならば、ここに行くべきだと親に言われました」。
 素質を持った選手を恵まれた環境で育てる、いわゆる“野球留学”という形で、津川の明徳義塾中学への進学が決まった。

 しかし、野球をやるためとはいえ、12歳の少年がこの年齢で親元を離れるのは厳しいことだった。「最初の頃は、正直しんどかったです」と津川は当時を振り返る。入学した中学の野球部には30名ほどの部員がいた。その中で、県外から入学した者は約半分。周りを見回すと、リトルリーグのエースや4番経験者しかいない。そんな環境に中学1年で飛び込んでいった。心細くない少年がいないというほうがウソになる。津川も最初は不安でいっぱいだった。

 中学校での生活は野球漬けの日々だった。野球部の仲間と寮生活を送りながら、寮と学校を往復する毎日。授業が終わればすぐに野球部練習場へ行き、日が暮れるまでボールを追いかけた。津川はそんな環境で揉まれていく中、全国から集められたレギュラー候補生の中でも頭角を顕していく。
「みんなうまいと思いましたけど、特別な選手がいたわけでもありませんでした。県内出身者は周りからすごく期待されるんですね。でも、僕は外から来たのでそこまで期待されているわけではなかった(笑)。だから、のびのびできたのかもしれません」
 中学3年の夏には四国大会で優勝を果たす。津川はショートを守り、中軸打者として活躍した。全国大会に通じる大会でなかったため、この大会で中学での部活は一旦終わったが、明徳義塾に入った大きな目標は高校で甲子園に出場すること。中学校のメンバーとともに、高校でさらに大きな舞台を目指していくことになった。

 目の前に立ちはだかる“大きな壁”

 明徳義塾中学から高校へ進学したのは、野球部の中でおよそ半分だった。全国のリトルリーグから集められた選手たちでも、レギュラーになれなかったものは他校へ移っていった。3年でクリーンアップを任されていた津川はそのまま高校へ進学することになった。
 高校野球へとステージが変わると、使用するボールが硬球へと変化したが、もともと明徳義塾中学へ通っていた津川にとって、高校野球部に上がっても大きな変化はなかった。中学から顔を知っている先輩も多くいる中、違和感なくチームに溶け込むことができた。レギュラーの座を掴んだのは高校1年の秋。徐々に力をつけていき、2年の夏の大会ではすでに3番を任されるまでになっていた。

 甲子園出場を目指す明徳義塾にとって、大きな壁になる存在があった。名門・高知商業である。津川が高校へ進学した1989年時点で、高知商は春夏あわせて30回も甲子園に出場していた。その中には80年春、中西清起(元・阪神、現・阪神ピッチングコーチ)がエースとして活躍し全国優勝した第52回大会も含まれる。後に夏の甲子園を制することになる明徳義塾だが、当時はまだ実力校へ変貌するためのステップ段階にあった。こちらは甲子園出場5回、そのうち4度は春のセンバツで、夏の甲子園を経験したのはわずかに1度だった。

 この頃、明徳義塾と高知商には決定的な違いがあった。明徳義塾は夏の県予選で高知商を相手に1勝もしたことがなかったのだ。出場回数以上に名門を相手に“0勝”という事実が明徳ナインに重くのしかかっていた。
 そんな中、90年夏の高知県大会決勝で明徳義塾は宿敵・高知商業と対戦した。2年生にして3番を任されていた津川は、この試合でもホームランを放つなど活躍をみせたが、試合は8対4で高知商業が勝利。宿敵が夏の選手権18回目となる甲子園出場を決めた。
 またも分厚い壁に跳ね返された明徳義塾。しかし、この試合の敗退後、明徳義塾には勝負に徹する監督が就任する。津川も新チームでは4番を任され、「打倒・高知商業」に向けて厳しい練習を積んでいくことになる。

(第2回につづく)

<津川力(つがわ・ちから)プロフィール>
1973年5月1日、東京都東久留米市出身。小学3年からリトルリーグに所属し野球を始め、中学1年から高知県明徳義塾に野球留学。高校では3年夏に甲子園に出場。初戦の市岐阜商戦で1試合2ホームランを放ち注目を集める。92年、ドラフト4位でヤクルトスワローズに入団。イースタンリーグで首位打者を獲得するものの、1軍出場は通算1試合にとどまる。99年に現役引退後、2000年にパシフィックリーグ審判部に入局。1年目のシーズンとなる01年10月2日に塁審として初出場、翌年9月27日には球審を経験。その後も順調にキャリアを重ね、08年日本シリーズ審判団に加わり第4戦で球審を務める。09年終了時点までに766試合に出場。182センチ、80キロ。




(大山暁生)
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