エドゥー率いるアトレチコ・ソロカーバと北朝鮮代表の試合は平壌の金日成スタジアムで行われた。
掲示板に、ソロカーバではなく、『BRAZIL』と出ているのを、ちらりと見てエドゥーは苦笑いした。
「ぼくらはブラジル代表じゃないんだけどな」
(写真:かつては、ブラジル代表にも選ばれたエドゥー 撮影:西山幸之) この日、ソロカーバはブラジル代表と同じ黄色のユニフォームを着用することになっていた。この国ならば、サンパウロ州2部リーグの小さなこのクラブを「ブラジル代表」と観客に思い込ませることは十分に考えられる。
観客はこのチームに、カカやロビーニョがいると思っているのだろうか。いや、彼らはカカがいたとしても誰だか分からないだろう。
試合が始まる前、エドゥーはいつものように北朝鮮代表のキム・ジョンフン監督のところに行き、握手をしようと手を差し出した。すると、監督は何をするんだと怪訝な顔をした。この国の人たちは、違った常識で動いているのだとつくづく感じた。
8万人収容のスタジアムは満員だった。入りきらなかった人たちが3万人もスタジアムを取り巻いていたという。
試合が始まると、選手たちはいつもと違った観客の反応に戸惑っているのが分かった。北朝鮮の選手がボールを持つと、観客席全部から気が狂ったような叫び声がした。一方、ソロカーバの選手がボールを奪うと、その声がさっと消えた。まるで無人のスタジアムで試合をしているようだった。狂乱と静寂の繰り返しだった。
ソロカーバの選手が簡単なパスミスをした。エドゥーはいつもの癖で、ベンチに座りながら、
「マルセロ! トマノクー(ケツの穴の意味)」
と叫んだ。すると、静まりかえったスタジアムに「トマノクー」の最後の「クー」だけが反響していた。
スタジアムの上層で観戦していた北朝鮮在住のブラジル大使夫人に、その言葉が聞こえて恥ずかしかったと、後から笑われた。
ピッチは青々とした人工芝で、ボールが良く滑った。同じアジアと言っても、日本とはずいぶん違ったサッカーだった。内容的に見どころはなかった。試合は0対0の引き分けに終わった。
試合終了後、エドゥーとキム監督が話をする機会があった。エドゥーは、「世界には沢山のサッカースタイルがある。ぼくたちのような南米サッカー、あるいは欧州、アフリカ。こうしたサッカーを研究した方がいい」と率直な感想を言った。
このレベルではW杯に出場しても、いいプレーを見せる可能性はない。エドゥーにしてみれば、せめてものアドバイスのつもりだった。
すると、キム監督はむっとした顔になった。
「我々は他のスタイルを学ぶ必要はない。北朝鮮のスタイルがある。それ以外は必要ない」
こういう国だと諦めるしかなかった。
北朝鮮での試合経験は愉快なものではなかった。しかし、日本に立ち寄れたことは良かったとエドゥーは満足している。改めて、自分と日本との繋がりを思い出したのだ。
エドゥーには、日本でプレーした同年代の友人が多い。ベベット、ジョルジーニョ、そして、ドゥンガ――。
エドゥーが日本を去った後、ドゥンガが日本でプレーするようになった。
87年のコパ・アメリカ、ソウルオリンピック予選で2人は一緒にプレーしている。代表ではいつも同部屋だった。
ドゥンガの口癖はこうだ。
「ぼくはいつも、もう一歩先に進みたいんだよ」
自分に何が足りないのか、ずっと考えているような男だった。ドゥンガは決して巧い選手ではない。技術的にはブラジル代表で背番号10をつけていたエドゥーの方がずっと上だった。
しかし、その後、W杯優勝メンバーとなったのは、ドゥンガだった。自分がその時、代表に選ばれなかったのは口惜しいが、同世代のドゥンガたちが世界で結果を残したことは誇らしいと思っている。
「お前たちは、俺たちの年代の代表なんだ。俺たちの年代は勝たなければならない」
とジョルジーニョやドゥンガに話したことがある。
そのドゥンガが監督、ジョルジーニョがコーチとして支えるブラジル代表が、南アフリカのW杯で北朝鮮と同じグループに入ったことは彼らにとっては幸運といえる。W杯での組み合わせが決まると、エドゥーの電話は鳴りっぱなしになった。
「誰も北朝鮮代表の情報を持っていなかったからね。あの時、1本幾らで情報料をとっていたら、ずいぶん稼げたろうね」
南ア大会でブラジルは、初戦で北朝鮮と対戦し、2対1で勝利した。ブラジルは、2勝1分けでグループリーグを首位で突破。しかし、準々決勝でオランダに敗れ、ベスト8で姿を消した。
一方、44年ぶりにW杯に出場した北朝鮮は3戦全敗でグループリーグ敗退。エドゥーが懸念していた通り、無残な結果となった。
エドゥーは日本で生活していた時代のことをふと思い出すことがある。
エドゥーの家には、Jリーグでプレーしていた外国人が集まってパーティーを開いていた。ジーコ、アルシンド(ともに鹿島アントラーズ)と言ったブラジル人はもちろん、アルゼンチン人の同僚モネール(横浜フリューゲルス)、ラモン・ディアス、ダビド・ビスコンティ、グスタボ・サパタ(ともに横浜マリノス)。そして、パラグアイ人のラウル・アマリージャ(横浜フリューゲルス)――。未だに彼らとの付き合いは続いている。
エドゥーは、Jリーグでのあの輝かしい日々が眩しく、そして懐かしい。また、いつの日か日本で仕事できればと考えているのだ。
(つづく)
■
田崎健太(たざき・けんた) ノンフィクションライター。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社に勤務。休職して、サンパウロを中心に南米十三ヶ国を踏破。復職後、文筆業に入り著書多数。現在、携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。2010年2月1日『W杯に群がる男達−巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)を刊行、さらに4月『辺境遊記』(絵・下田昌克、英治出版)を刊行。
◎バックナンバーはこちらから