「猛牛軍団」奇譚(石井浩郎)
勝ち方も豪快なら、負け方も豪快。時間切れ引き分けでリーグ優勝を逃した10・19。ブライアント4連発での逆転V。日本シリーズ、まさかの3連勝4連敗--。魅力満載の“仰木近鉄”笑撃秘話。
<この原稿は2022年6月5日号の『ビッグコミックオリジナル』(小学館)に掲載されたものです>
せっかくの「金言」も、聞く耳を持たなければ、単なる「戯言」である。
1990年代、一騎当千の兵(つわもの)が集う“猛牛軍団”の主砲として鳴らした石井浩郎が、プロ野球の新人研修で、連続試合出場のNPB記録を持つ“鉄人”衣笠祥雄の謦咳に接したのは25歳の時だ。
プロ野球選手にとって、25歳という年齢は若くない。高卒ルーキーのように、活躍しなくても球団は3年も5年も辛抱してくれはしない。結果が出なければ、すぐに戦力外通告が待っている。
早稲田大、プリンスホテルを経て90年にドラフト3位で近鉄に入団した石井はキャンプ前、急性肝炎に見舞われる。
「(肝臓の機能を示す)ガンマGTPの値が2500くらいまで上がり、僕はサイパン・キャンプにも行けず、1カ月間、ずっと病院で寝たきり状態。3月に退院して、外野を歩く練習から始めました」
新人研修に参加したのは、退院して間もない頃である。そこで聞いた衣笠の話は、その後の石井の野球人生を方向付けるほど示唆に富んだものだった。
「衣笠さんによると、高校を出てまだ2、3年目の頃はのんびりした気持ちでやっていたと言うんです。いずれレギュラーのお鉢が回ってくるだろうと。ところが3年目のオフ、球団職員が企業の名前を5つくらい書いた紙を持ってきて“この中から選べ”といったというんです。
その時、初めて衣笠さんはクビを覚悟した。“このままじゃマズイ”と。それでお尻に火がついて、死ぬ気になって練習に取り組み始めたと。
まわりの新人を見ると、皆、キャンプ焼けで真っ黒い顔をしている。病み上がりの私ひとり、真っ白。でも、私はこの時“勝ったな”と思った。病気をしたこともあり、普通の選手が3、4年たって気づくことを、プロに入ってすぐに理解することができた。通常通り、2月1日からキャンプインしていたら、野球のできるありがたみがわからなかったかもしれません」
1年目、86試合の出場ながら打率3割、22本塁打。ここ一番での集中力は新人離れしていた。
「ちょっとした自慢があるんです」
石井は切り出し、続けた。
「僕の学生時代の打率は2割4分1厘。ところがプロ通算は2割8分9厘。これ、普通は逆でしょう」
確かに、その通りだ。アマでどれだけ高打率を残していても、プロでは落ちるのが相場である。プロに入って5分近くも打率を上げたバッターというのは、ちょっと記憶にない。しかも石井には3年間の社会人生活がある。金属バットの弊害が指摘されていた頃だ。
「社会人に入り、内側から振り抜くスイングを徹底して練習しました。要はヘッドを遅れ気味に出すんです。スイングのノルマは1日1000回。私の野球人生で、一番バットを振ったのがプリンスホテルでの3年間でした」
当時の近鉄は強打者が揃っていた。ラルフ・ブライアント、ジム・トレーバー、鈴木貴久、金村義明……。盗塁王の常連の大石大二郎は、小柄ながら20本台のホームランを打つパワーを秘めていた。
「実は私、広島から指名されると思っていたので、近鉄に指名されてびっくりしました。当時のクリーンアップといったらブライアントや鈴木貴久。“あんな中に、どうやって割って入るの!?”と」
監督の仰木彬は56年から58年にかけて、日本シリーズ3連覇を果たした“野武士軍団”西鉄の一員で、石井によると「勝負事には厳しかったが、私生活も含め細かいことは一切言わなかった」。近鉄も仰木の豪放磊落の性格を色濃く反映したチームだった。
猛牛軍団の異名にふさわしい、こんなエピソードがある。92年9月初旬、北海道遠征した際の出来事。
負けが込んでいたわけではないが、近鉄は1日の西武戦に0対22と記録的な大敗を喫していた。KOされたのは石井と同期入団の野茂英雄だった。
釧路での日本ハム戦が終わった直後だ。仰木は全選手を居酒屋に招集し、こう宣言した。
「今日は心置きなく飲んでくれ。だが、ひとつ提案がある。先に大ジョッキを飲み干した者をスタメンに使おうと考えている」
当時の近鉄は、キャッチャーは光山英和、古久保健二、山下和彦。ショートは吉田剛を筆頭に水口栄二、安達俊也といった具合にレギュラー争いが激しかった。投手陣もローテーションに谷間があった。一気飲み大会に参加した吉井理人は、後に語ったものだ。
「僕はそれほど飲めないんですが、あの時は死ぬ気で飲みました。大げさでなく自分の野球人生をかけるつもりで(笑)」
2年目の水口も先輩たちに負けじと飲んだ。
「僕はまだペーペー。一気飲みに勝ってセカンドで先発出場したんですが、4回に大石さんに代えられてしまいました」
3年目の石井は、既にファースト、もしくはサードでレギュラーの座を確保していたため「死ぬ気で飲む」必要はなかったが、いい気晴らしにはなったという。
「仰木さんには遊び心がありました。選手を精神的に追い込むことは絶対にしなかった。(ヘッドコーチの)中西太さんに至っては、ひどい負け方をしても白板に“何苦礎(なにくそ)”と書くだけ。そして、すっと帰る。カッコよかったですよ」
昔を懐かしむように、こう続けた。
「私がいた7年間、一回も優勝はできなかったけど、最高の環境で野球がやれた。仰木さんは勝ち負けではなく、常にパ・リーグのこと、プロ野球のことを考えていた。プロとは何か。それを背中で学ばせて頂きました」
仰木が没して16年、近鉄が消滅して17年。されど猛牛軍団の伝説が朽ちることはない。