西本恵「カープの考古学」第98回 <カープを救った“単月エース”渡邊信義編その2/国鉄・金田正一との投げ合い>

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 カープの戦力不足は球団創設時からで、その実力差は歴然としていたとされる。これは球団創設から3年経った中でも変わらなかった。こうした境遇を幾度も味わってきたカープだが、境地を救う人物が現れた。前年の昭和26年8月に、広島県庁の軟式野球部から入団した渡邊信義である。異例とも言えるアマチュア野球の、しかも軟式野球からのプロ入りである。

 

 渡邊は入団してからしばらくは、リリーフ登板でチャンスを待った。

 これは渡邊本人も当然であろうが、カープの指揮官である石本秀一監督においても、しかりである。じっくりと辛抱して、育てながら、使う。使いながら育てるというカープの育成リズムは、初期の頃の戦力不足に起因していることに違いはなかった。

 

 しかしながら、信義が入団して丸一年、この間リリーフ登板で力をつけた成果として、初勝利をあげたことは前回の考古学で述べた。そこから2つ目の勝ち星をあげるまでそう遠くはなかった。

 

ヘルシンキ五輪の異変

 渡邊信義が台頭してきた時期のスポーツの話題と言えば、現地、昭和27年7月19日に開幕し、日本中が沸いたヘルシンキ五輪であった。この大会、世界が注目したのは長距離選手のエミール・ザトペック(チェコスロバキア)。彼が近現代スポーツでは不可能とされる長距離三種目の金メダルを獲得したことは前回の考古学で述べた。ザトペックは、ある行動に出たのだ。

 

<金メダル譲りたい>(「中国新聞」昭和27年8月4日)との新聞の見出しが躍った。ザトペックが金メダルを譲渡すると申し出たことが記されている。

<ザトペック選手は5000メートルで得た金メダルを西独のシャーデ選手に譲ろうとした>(同前)

 この時のザトペックは<「シャーデ選手は五千メートルで私を勝利に導きオリンピック新記録を出させてくれた選手だ。私はシャーデ選手に金メダルを譲りたい」>(同前)と願い出た。

 

 記事ではヘルベルト・シャーデと切磋琢磨してきたからこそ、金メダルの栄誉があるというザトペックのアスリートとしての崇高さからの決断が伝わってくる。しかし、これに待ったがかかるのである。

 

 ドイツのスポーツ指導者であり、国際オリンピック委員会の一人であるカール・リッター・フォン・ハルト博士は<「オリンピックの金メダルは勝利者のみに与えられるものだ」>(同前)という見解を示した。ただし、このザトペックの好意に対し、フォン・ハルト博士は<「われわれの時代の最大のスポーツマン」>(同前)と敬意を示したのだ。

 

 近年、日本でも上映された映画『ザートペク』において、ザトペックがヘルシンキ五輪で、金メダルを獲った史実が、スクリーン上でリアルに再現された。同五輪やり投げで金メダルを獲得した妻のダナ・ザトペコワが、ゴールした夫を甘い口づけで迎えるシーンは、トップアスリートを金メダリストの妻が迎え入れるという名シーンであり、グッと目を奪われてしまう。

 

 この映画において、ザトペックは後にオーストラリアのロン・クラークに金メダルをプレゼントするシーンが映し出される。ヘルシンキでは待ったがかかったが、時代を超えた金メダルの贈呈である。ロン・クラークは幾つもの世界新記録を樹立しながらも、金メダル大本命と期待された1968年のメキシコシティ五輪で不遇にも病にかかり、金メダルを逃していた人物である。

 

 ザトペックは自身がトップアスリートとして認めた選手に金メダルを捧げようする姿勢は昔からあったとされる。そこでチェコセンター東京事務所に尋ねた。

 同センターにおける所長アシスタントの稲岡由香さんは「当時としては常識破りの独自のトレーニング方法で、強い意志を持って競技者として結果を出しただけでなく、手助けを厭わない彼の明るい人間性は、友情を大事にし、オリンピック精神を象徴するようであったといわれています」と語る。いずれにせよ、ザトペック自身が金メダル獲得直後から、その栄誉に繋がった人物へのメダル提供を試みている。あまりにも高尚すぎる思想は世代を超えて語り継がれることであろう。

 

救世主誕生の試合

 ザトペック物語が刻まれたヘルシンキ五輪の傍らで、カープの夏場戦線が本格化していった。渡邊が“単月エース”と呼ばれるようになった、きっかけの試合として、8月17日、仙台で行われたカープ対国鉄戦をあげないわけにはいかない。

 

 カープ先発の渡邊に対し、国鉄スワローズはエースの地位に辿り着いた金田正一がマウンドに上がった。この日のカープ打線は、その金田を見事にとらえたのである。2回表に5番の門前眞佐人がヒットを放って以降、四球が続いて、押し出しによる先制した。これを足掛かりに、なかなか調子の上がらない金田を攻め立てた。3回表にはランナーを置いた場面で、4番の大澤清がシーズン第1号となるツーランホームランで突き放した。国鉄は早々に金田を降ろし、宮地惟友に交代。

 金田を打ったことで意気が上がったか、カープは6回表に2点を加え、5対0とリード。ワンサイドゲームの雰囲気すら出てきた。

 

 というのも、援護をもらった渡邊は国鉄打線を完璧に抑え、6回裏までヒットを1本も許さなかったのだ。

 こうなると渡邊のひとり舞台が予測された。あわよくば大記録達成か――。ところが、7回裏の国鉄の攻撃で、前年までカープの主将を務めていた3番の辻井弘がセンター前ヒットで出塁。これをセンターの塚本博睦が後逸してしまった。さらにショートの白石勝巳(前・敏男)のエラーもあり、この回に2点を奪われてしまった。

 

 この試合、石本秀一監督は負けてはならぬとリリーフさせたのは、長谷川良平であった。長谷川は残りの2イニングをゼロに抑えて、カープは5対2で勝利を収めた。

 

 渡邊は金田との投げ合いに勝ち、6回までノーヒットノーランで抑えたことで、<これですっかり自信をつけて>(「広島カープ十年史」(「中国新聞」昭和35年2月8日)いき、単月でありながらエースという称号を得ていった。

 この試合の総括として、<長谷川の救援となったが、勝利の原動力であったことに変わりはない>(同前)と渡邊は評価された。

 

 カープの3年目のシーズンは戦力不足に泣かされ、激動のシーズンとなった。シーズン前には長谷川の引き抜き事件が発生し、カープ首脳陣をはじめ、ファンは翻弄された。ただ、その結果として、リリーフ登板で実戦経験を積んだ渡邊が台頭してきた。

 

 さあ、カープの救世主・渡邊信義。次回の考古学でも、“単月エース”としての活躍をお伝えする。この年、カープが唯一夏場まで勝てなかったチームとの決戦の日がやってくるのである。乞うご期待。

 

【参考文献】

『カープ50年—夢を追って—』1999年(中国新聞社)、「中国新聞」(昭和27年8月4日、18日)、「広島カープ十年史」(「中国新聞」昭和35年2月8日)

【取材協力】

チェコセンター東京事務所

 

 

西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>スポーツ・ノンフィクション・ライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーのスポーツ・ノンフィクション・ライター西本恵さん回は、第3週木曜更新)

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