西本恵「カープの考古学」第97回<カープを救った“単月エース”渡邊信義編その1/札幌で初完投勝利>

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 カープ創設3年目のシーズン、戦いも夏場に入っていた。プロ野球のペナントレースの行方も気になる中、昭和27年の夏、スポーツの祭典、ペルシンキ五輪が現地時間7月19日に開幕した。

 日本国にとってみれば、独立後初のオリンピック、大戦後から初めて参加が許された大会でもあった。国際社会への復帰を示す大会とはなったが、東洋の“ジャップ”の犯した罪は、未だ消えぬ戦争の爪痕として残っていたと思われる。しかし、日本選手らの奮闘ぶりはメダル獲得数7個に表れた。中でもレスリングの石井庄八が、男子フリースタイル・バンタム級で圧倒的な強さを見せ、金メダルを獲得したことは、日本人に大いに勇気を与えた。

 

五輪効果か、球界に“ザトペック”

 大会で最も世界に印象を残したのは、陸上の長距離3冠を達成したチェコスロバキアのエミール・ザトペックではなかったか——。彼の妻ダナ・ザトペコワにおいては、陸上・女子やり投げで金メダルを獲得した。夫婦アスリートとして注目される中、夫・ザトペックは男子5000メートル、同10000メートル、さらに同マラソン(42.195キロメートル)で金メダルを獲得した。特にマラソンにおいて、レース終盤の苦しい場面で、頭を左右に振りながら、全身をうまく使って走り抜く姿は印象に残った。このザトペックの名は後に競技を越えて、日本でも名を残すのである。

 

 ミスター・タイガースこと阪神投手の村山実。彼の全身を使うピッチングフォームは、ザトペックに似ていると評され、“ザトペック投法”と呼ばれた。ザトペックの達成した長距離3冠という偉業は近現代の陸上競技において、専門化がすすむ長距離走の世界では達成不可能とされているが、野球界の歴史にもその名を刻んだ。

 

 さて、今編のカープの考古学において主役となる渡邊信義であるが、あくまでも“単月エース”としての偉業ということだけは断っておかなければならない。しかし、戦力不足のカープにあって、単月(正確には1カ月と8日間)で6勝をあげた功績は、貧しさ以外、話題のなかったカープにあって、特筆に値する。

 

 彼の“十字架投法”(※他説で十字架球とも記されている)と呼ばれた両手が広がり、十字に見える投球動作(※子息証言)から繰り出される浮き球は打者を混乱させた。今編ではその“単月エース”の活躍をキャッチアップする。

 

北海道遠征に好機を見出す

 カープ3年目の中盤戦、勝率は2割台と低迷していた。10試合戦って2つだけしか勝てないという戦力的に見劣りするカープ。厳しいプロ野球に身を置くことのできる球団とはいえなかった。ところが、草創期カープ選手らの夏場の遠征に楽しみがないわけではなかった。

 

 カープは夏場になると、読売巨人軍に帯同して行われる東北遠征から北海道シリーズがあった。北海道シリーズでは巨人、カープに加え、大洋ホエールズ、国鉄スワローズと試合を行いながら移動を続けた。一説には過酷なロードではあったが、読売の計らいにより、「夕食にはビールが出されることもあった」と当時の選手談があるほど、十分な歓待を受けた。

 

 加えて、北海道の新鮮な魚介のおいしさも魅力であったと言われている。カープの石本秀一監督は、北海道遠征で決まって買い求めていたものがあった。この時期はニシンの大漁が続いていた時代とあって、大量のニシンの燻製を買った。長男・剛也(故人)の話によれば、「そりゃ、驚きましたわ。何を送ってくるのかと思えば、ニシンの燻製ですよ。石炭箱(木箱)に何箱も……」とのことである。

 

 終戦後のしばらくの間、保存がきくニシンの燻製は、食糧不足をしのぐのには最適であったようだ。またニシンは畑に撒くなど、たい肥代わりにもしたという。石本の眼力は、常に今の生活を満たすだけでなく、先の生活をも見据えていたのだ。生活の知恵者でもある石本らしい一面である。北海道でビールと魚介を味わい、さらに実家への仕送りとしてのニシンの燻製を送る。石本にしてみれば、地の利をうまく生かした北海道遠征であった。

 

4球団による北海道シリーズ

 この年のカープは7月31日に松竹ロビンスに3対1で勝利し、広島を離れた後、8月3日、福島(対国鉄戦ダブルヘッダー)で連敗して遠征が始まった。6日、八戸(対巨人戦)に敗れ、本土を離れて、いざ北海道に渡った。8日の旭川(対巨人戦)まで4連敗を喫し、札幌入りをした。

 

 急速に人口が増加している札幌市とあって、9日は大洋対カープ、国鉄対巨人、翌10日にはカープ対国鉄、大洋対巨人という変則ダブルヘッダーが組まれた。2日間で4チームによる4試合が見られるという、札幌の野球ファンにはたまらない日となった。

 

 9日の第一試合、カープは接戦の末、7対5で大洋に粘り勝ちした。エース長谷川良平が、11安打され5点を失いながらも、最後まで投げ抜いて完投勝利を収めた。シーズン当初、移籍問題でキャンプ練習をしていないゴタゴタを忘れさせるほどの粘り強いピッチングに加え、この年苦手とした大洋に、打線で上回った。

 第二試合の国鉄対巨人であるが、これが大接戦となった。初回に巨人が4点をあげたが、国鉄が粘る。2回表に1点をあげ、8回表には森谷良平の2ランで1点差に詰め寄った。勢いそのままに9回表に追いついた。

 

 そこで国鉄は救援に金田正一を送り込み、勝機を手繰り寄せようとした。ところが、内野手のエラーと2つのフォアボールで満塁。ここは金田が踏ん張り、4対4で延長に突入した。金田で勝つという盤石な策を講じて延長に入ったものの、延長13回裏にハプニングが起こった。

 

 巨人は平井三郎、広田順の下位打線が安打を連ね、スコアリングポジションにランナーを置いた。ここで代打になんと投手の藤本英雄を送り出したのだ。藤本が前々年、投手ながらホームラン7本を放っており、二刀流で鳴らした男とあって、国鉄は敬遠策をとった。

 

 すると金田が投じたウエストボールがなんと暴投に——。あっけない幕切れとなったのである。

 

初勝利を完投で飾る

 こうして、札幌での初日を終えた翌日、カープは国鉄スワローズと対戦した。本編の主役、渡邊信義が先発マウンドに上がった。対する国鉄は新人の大脇照夫である。渡邊にしても、前年夏のテスト入団ということもあり、キャリアの少ない投手同士の対戦となった。

 

 カープは2回表に1点をあげただけで、大脇の勢いにのまれた。一方の国鉄は渡邊を小刻みに攻め立て、初回に先取点をあげると、3回、6回に1点ずつもぎとった。中盤を終え、1対3と国鉄にリードを許した。

 しかし、先発に回った渡邊をなんとか援護したいと、7回表に球筋が乱れた大脇をカープ打線が捉えた。4本の長短打を浴びせ、ノックアウト——。

 

 さらに、代わった高橋輝も、カープの山川武範、岩本章らが好打し、この回一挙5点をあげた。6対3とリードした渡邊は打線の援護に気をよくしたのか、そのまま投げ切り、完投で初勝利を収めたのである。

 この初勝利は先発の駒不足の中での苦し紛れの登板であったが、しかしながら、石本監督の過去の起用法から、その哲学が見えるのである。入団からちょうど1年間はリリーフで投げさせ、ここで先発投手として起用したのだ。

 

 広島県庁の軟式野球部からの入団とあって、1年間の辛抱時期をじっと待ち、先発をさせた。この渡邊の2勝目はそう遠くはない。というのも、前出の国鉄のエース金田正一との投げ合いをする。ただし、この時点では、そのことを予測することはできなかった——。

 

 カープ3年目の真骨頂ともいえる、戦力がないならないで使いながら、育てていく。まさに育成のカープ。次回のカープの考古学では、このないないづくしの育成術による渡邊信義と金田正一の投げ合いについて、お伝えする。ご期待あれ。

 

【参考文献】

「読売新聞」(昭和27年8月10日朝・夕刊)、「毎日新聞」(昭和27年8月11日)、「朝日新聞」(昭和27年8月11日)、『カープ50年-夢を追って-』中国新聞社(平成11年11月)

 

西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>スポーツ・ノンフィクション・ライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーのスポーツ・ノンフィクション・ライター西本恵さん回は、第3週木曜更新)

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