「うおぉー!」。ドラフト会議で自身の名前が読み上げられた瞬間、俊野達彦は隣にいた父・正彦と手を取り合って驚きに近い声を上げた。会議の模様は愛媛の実家でインターネット配信サイトを通じて見守っていた。トライアウト後、「どこかのチームに指名されるだろうな」という手ごたえはあったが、その“どこか”に“群馬クレインサンダーズ”は入っていなかった。というのも、先輩たちからトライアウト後に声をかけられたチームから指名される可能性が高いと聞いていたからだ。俊野は群馬の関係者とは一切、言葉を交わしていなかった。しかし、断る理由はひとつもなかった。2012年7月6日、俊野は群馬と契約で基本合意に達し、晴れてbjリーガーとなった。
(写真:(C)Gunma Crane Thunders/清水 和弘)
 指名後にチーム関係者と面会した際、身体能力の高さとディフェンス力を評価されたことを聞いた。当時のヘッドコーチ(HC)はプレッシャー・ディフェンス(ボールを持っている相手に素早くプレスをかけてボールを奪ったり、ミスを誘うというもの)のチームを志向していた。また、プレッシャー・ディフェンスは相当な体力を必要とするため、次々と選手が入れ替わるタイムシェアという戦術も採用していた。そのタイムシェアでは選手の積極性が求められる。慎重に状況を見極めるタイプの選手では、短いプレイタイムでゲームスピードを遅らせてしまうからだ。その点で俊野はドライブで果敢に仕掛けたり、少しでもチャンスがあればアウトサイドからシュートを打つ。彼のアグレッシブさもまた、群馬が指名した大きな理由だった。

 大学卒業から、約2年を経て憧れの舞台に辿り着いた。だが、俊野は決して遠回りだとは思っていない。
「社会人時代は、体育館を確保して、ただ練習するだけでもすごく大変でした。一緒にトレーニングをする人もいなかったですし……。そういった苦労を経験しているので、バスケットのことだけを考えられる今の環境はすごくありがたい。もし、社会人を経験せずにプロになっていたとしたら、“バスケットができることが当り前”と思ったままだったでしょう。そうじゃないことに気がつけて本当によかったです」
 俊野は人間としても一回り成長して、プロの世界に足を踏み入れたのだ。

 信頼を得たハッスルプレイ

 俊野は開幕戦(対富山グラウジーズ)から起用され、得点も量産した。特に家族が観戦に訪れた第3戦(対信州ブレイブウォリアーズ)は、20得点を叩き出す活躍だった。正彦はプロとしてプレイする息子を見て「意外にやれていてる」と感心したという。しかし、ある不安も感じていた。
「相手が(俊野の動きに)慣れたら抑えられると感じました。ですので、試合後に話をした時に“たぶん、明日(第4戦、対信州)は違うよ”と言って帰りました」
 正彦の予感は的中した。第4戦以降、俊野のパフォーマンスは低下していったのだ。開幕当初に比べ、彼のプレイスタイルを対戦相手に分析されたことが大きな要因だった。

 背番号33がボールを持った途端、アウトサイドからのシュートを警戒され、激しく体を寄せられた。そのため、余裕のない状態でシュートを打つタフショットになりやすくなり、成功率も下がった。また、一番の武器であるドライブへの包囲網も敷かれた。
「僕がドライブで抜いていく選手ということも相手は知っています。ですから、ひとり抜いた後のヘルプの寄りが速くなっていると感じますね」
 俊野がインサイドにドリブルで入り切るまでに体を寄せられ、適切なシュートやパスの判断ができない状況が続いたのだ。

 俊野自身がbjでの戦いに苦しんでいたのと同様に、1年目のチームも深刻な状況に陥っていた。開幕から泥沼の8連敗を喫していたのだ。第8戦(対岩手ビッグブルズ)終了後には早くもフロントがコーチ陣の刷新を決断。新HCには2010年から昨年まで、大阪エヴェッサで指揮を執っていたライアン・ブラックウェルを招聘した。俊野は指揮官が変わったことで、再び自分の特徴をアピールする必要があった。

 新体制になって臨んだ横浜ビー・コルセアーズとの第9戦、第10戦(ブラックウェルHCはビザの問題でベンチ入りできず)で、彼は合計6分間しかプレイできなかった。ただ、それは指揮官が俊野を使えないと判断したからではなかった。就任して間もなかったため、大阪時代に対戦して特徴をある程度掴んでいた選手を中心に起用したためだった。むしろ、指揮官の俊野に対する期待は大きい。
「彼はいい選手です。スキルと技術を持っていて、シュートも打てます。ボールのハンドリングも、タッチがすごくいい。攻守においてまだまだ伸びる力があると思います。理解力も高いですから、私たちのアドバイスをよく聞いてくれればすぐ上達できるでしょう」

 俊野自身も焦ってはいなかった。
「プレイタイムが少ないのは悔しいです。でも、まだ始まったばかり。今後もバスケットをしていくなかで、試合に出られない時がないとは言い切れません。そういう悪い時にどう行動するかが大事です。ベンチにいるなら、ベンチから声を出してチームを盛り上げる。1試合で2、3分の出場時間でも、いざ出た時にどうすればチームに貢献できるかをちゃんと考えて準備しておく。あとは練習でしっかりアピールして、プレイタイムを増やしていくしかない。悔しい気持ちをプラスに変えて、頑張っていきたいですね」
 試合後、彼はこのように語っていた。

 すると、第11戦(対富山)から徐々に出場時間が増えた。その要因を俊野は、持ち前のドライブに加え「ディフェンスでハッスルする姿勢」が評価してもらえていると分析している。“ハッスル”とはどういうプレイを指すのか。
「ルーズボールに体ごと飛び込んでボールを確保したり、リバウンドに積極的に絡んでいくプレイは練習から心がけています。そういうところが評価してもらっていると思います」
 個人としていいプレイができるようにではなく、チームにどう貢献するかを考え続けたことが、指揮官からの信頼獲得につながったのだ。

 bjリーグで生き残る道

 チームは第13戦(対東京サンレーヴス)で待望の初勝利をあげると、第18戦(対千葉ジェッツ)から3連勝を記録した。
「やっぱり、連敗していた時に比べ、しっかり気持ちを入れ替えて、前を向けていることが大きいと思います。勝ちに対する気持ちが日々、強くなっています。チームとしてのまとまりも高まってきていると感じますね」
 俊野はチームの変化をこう明かした。個人の課題だったドライブした時の判断については、「少しずついいプレイが出るところもあります。継続していけば、絶対いい方向に変わっていく」と手ごたえを感じているようだ。

 では、彼が描く理想の選手像はどのようなものなのか。
「30点も40点もとれる選手になりたいとは思っていません。僕が目指すのはしっかり点もとれるけど、それ以上に味方を生かせる選手です」
 自身の武器であるドライブやスピードも生かしながら、周りの選手をうまく使う。俊野はそれがbjリーグで生き残っていく道と考えている。また、「ディフェンスでチームに貢献するのは絶対条件です。それが一番大事ですね」と大学時代に培ったバスケット観を自分に言い聞かせるように、そう付け加えた。

 年が明ければ、オールスターゲームを境にシーズンは後半戦に突入する。目標を訊ねると、彼は「日本一です」と即答した。
「今は苦しい状況かもしれませんが、ひとつひとつ課題をこなしていけば、達成できると思います」
 常に前向きに物事を捉えられることも、彼の魅力である。
 これからが本番のバスケットボール人生――どんな困難が訪れても、俊野は得意のドライブ同様、ある時は華麗に、またある時は強引にでも前に進み続ける。

(おわり)

俊野達彦(としの・たつひこ)プロフィール>
1988年1月18日、愛媛県生まれ。雄新中―新田高―大商大―草加クラブ―千葉エクスドリームス。小学3年時にバスケットボールを始める。新田高時代は1年時から全国大会に出場。小中高ともに愛媛県の優秀選手に選出。大学は関西大学バスケット界の名門・大商大に進学したが、卒業後は就職し、第一線から離れた。しかし、プロになる夢を諦めきれず、2011年のbjリーグ合同トライアウトやチームトライアウトを受験。同年に入団した千葉エクスドリームスで練習を重ね、今年6月の合同トライアウト最終選考に合格。同月、ドラフト会議で群馬から2位指名を受けた。現在、新人ながら全試合に出場を続けている。高い身体能力と鋭いドライブが武器。身長185センチ、80キロ。背番号33。

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(鈴木友多)
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