西本恵「カープの考古学」第101回<カープを救った“単月エース”渡邊信義編その5/真価が問われる試合で完封劇>

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 カープ3年目、残暑の厳しい8月23日、岡山で名古屋軍を相手にエース長谷川良平が、好リリーフをみせて8対4で勝利した。この名古屋軍からの1勝は、この年の名古屋軍戦初勝利であった。1勝9敗1分。名古屋軍に劣勢のまま、夏場戦線を終え、季節は秋を迎えようとしていた。

 

 この時期になると毎年のように決まって「稲の作柄」が報道される。カープが名古屋軍に勝った4日後の8月27日の「中国新聞」にはこうある。

<稲の作柄“やや不良”>

 戦後の食糧事情の厳しい中、この年から独立を果たして日本国として歩み始めた最初の米である。

 

 作柄が“やや不良”となった原因は、全国的な水害や害虫であるとされた。

 確かにそうである。6月には多数の死者を出したダイナ台風、7月上旬には関西地方を中心に各地で梅雨前線による豪雨にさらされた。さらに害虫の発生があればなおさら作柄に悪影響があったろう。

<とくに二化メイ虫の発生が多かったことによるものである>(「中国新聞」昭和27年8月27日)と伝えられた。

 

 この二化メイ虫であるが、聞きなれない虫がいたものだと思われるかもしれない。いわば蛾(が)の一種で、幼虫から成虫になりにニカメイガとも呼ばれる。しかし、この幼虫は稲作農家にとっては天敵で、年に2回、春すぎと夏以降に大量に繁殖するため、稲の根や茎を食い散らす。秋口にきれいな黄金色に輝く稲穂とはならず、白い稲穂「白穂」となる原因の一つとされている。

 

 ところが、である。9月に入って、その後の作柄が好転しつつあることが伝えられた。

<八月以降は好天が続き、作柄はしり上がりに改善されている>(「中国新聞」昭和25年9月1日)

 いよいよ迎える稲穂の開花期の9月であるが、<台風と低温による被害さえなければさらに増収に向かうものと期待される>(同前)と改善の兆しは顕著であった。

 

実りの秋

 さて、カープも、この年の稲の作柄と同様に、しり上がりに改善し、収穫の多い秋にしたいものだった——。

 カープにも害虫ならぬ、天敵が多かった。この年まったく勝てなかったのは名古屋軍が筆頭であるが、そのリーグの大元であるセントラルリーグ連盟の「3割規定」のお達しもカープの行く手を阻むものであった。

<セ・リーグには公式戦終了時に三割以下の勝率だと翌年度の公式戦出場権を取消される>(「中国新聞」昭和27年8月26日)

 この時点で、カープは松竹ロビンスと激しい最下位争いを繰り広げており、優勝争い以外にも球団消滅の争いに焦点があてられることとなった。

<広島、松竹の六位争奪が焦点>(同前)とされ、余談の許されない秋戦線の幕が切って落とされた。

 

 8月29日時点で6位松竹が、26勝65敗1分で勝率2割8分6厘だったものの、7位のカープは22勝57敗2分で勝率2割7分8厘。カープは6位とゲーム差なしだが、わずか勝率で及ばなかった。

 

 カープは、8月30日の松竹とのダブルヘッダーを秋戦線に向かう中での最初の山場と睨んだ。当然エースを立てて臨む常套戦術である。初戦をエース長谷川に託し、2戦目を単月ながらエースの称号を得た渡邊信義でいくというのがまっとうな策であろう。

 石本は初戦の先発を長谷川に託し、第2戦の渡邊につなげることで、2連勝で一気に6位に駆け上がる、という算段だった。2連勝した場合、松竹を抜いて6位になるばかりでなく、勝率2割9分6厘となり、勝率3割まであと1勝となる。こうした思惑の中でダブルヘッダーに臨んだ。

 

松竹に勝ちたい

 松竹とのダブルヘッダーは、大阪で行われた。相手先発は島本和夫。前年まで勝ち星に恵まれなかったが、この年にはシーズン9勝をあげ、プロとしてやっていける地位を得つつあった。

 先手必勝とばかり起用されたエース長谷川だが、2回裏に2本のヒットでピンチを招き、綱島新八に豪快なスリーランホームランを浴びてしまった。

 しかし、6位浮上に燃えるカープは3回表に連打を重ね、3点を奪って同点とした。その後、長谷川も踏ん張るかに見えたが、4回裏、この日当たっている網島に内野安打で出塁されると、宮崎仁郎のタイムリーで再び、松竹にリードを許してしまう。

 

 カープはヒットも出て幾度かチャンスがあった。だがこの試合、浴びせた9本のヒットも実らず、得点は3点のままだった。

 一方、松竹は、8回裏に目時春男のソロホームランをはじめ、攻撃の手を緩めず、2点を加え、勝負を決めた。結果、3対6でカープは敗れた。

 

 初戦を落としたカープは、この時点において<カープ六位進出の機逸す>(「中国新聞」昭和27年8月31日)と伝えられた。

 

“六位進出”だけを願っていたカープであるが、最下位脱出は遠かった。しかし、この日はダブルヘッダー。落胆する暇はなかった。第2戦の先発の渡邊の右腕に託し、気持ちを切り替えた。

 

勝利をもたらしたもの

 第1戦目を落としたカープは、たとえ勝利したとしても、6位進出はない。しかし、不屈の精神力といわれる石本秀一監督が諦めるわけはなかった。2戦目の先発マウンドは、渡邉だ。

 

 対する松竹は小林恒夫。小林の立ち上がりを叩いたのは、カープの2番山川武範である。山川が出塁し、4番に座った門前眞佐人のタイムリーで早々とカープは先取点を上げた。この1点があれば、この時期の渡邊ならばいけるのでは——。そういう気にさせる何かが彼にはあった。この日の渡邊の速球には威力があったからだ。

<廣島の渡邊は横手投からの低目をつく速球で>(同前)松竹打線を打ち取った。

 

 このまま1対0でいくかにみえた中、カープは8回表にヒットを重ねて1点、さらに、9回表にも1点を加えてダメ押しとした。

 渡邉は、この日、強力な松竹打線を6安打に抑えて要所を締めた。<松竹打線を完封して勝利貢献者となった>(同前)。まさに落とせない1戦でのエースとしての働きぶりであった。

 

 カープは渡邉の踏ん張りで、最悪の事態は免れた。長いシーズンを戦う上で中長期に働ける選手が多いに越したことはない。しかし、短期的な活躍を見せる選手によって、つながれる歴史もあるのが、プロ野球の世界である。この後に予定された国鉄戦で石本監督が奇襲に出るのである。中2日で渡邊をスクランブル登板させたのだ。

 自身も投手経験のある石本は、次節の国鉄とのダブルヘッダーに単月エース渡邉を先発させる。その結果はいかに——。次回の考古学にご期待あれ。

 

【参考文献】

「中国新聞」(昭和27年8月26日、27日、31日、9月1日)

※引用は原文の趣旨を損なわない範囲で一部修正

 

 

西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>スポーツ・ノンフィクション・ライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

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