「3年後、必ずプロに行きたいと思います!」
 熊代聖人と初めて会ったのは2008年10月のことだ。今治西高校(愛媛)から社会人野球の名門・日産自動車野球部に入って半年以上が経とうとしていた。投手から野手へと転向し、「まだまだ課題は山積み」と言いながらも、その屈託のない笑顔は充実感に満ち溢れていた。ところが、それから約4カ月後、日産自動車野球部が09年度限りでの休部を発表した。まさに青天の霹靂だった。それでも熊代は宣言通り社会人3年目の昨年、ドラフトで埼玉西武に指名を受け、プロへの扉を開いた。そして今、早くも一軍でレギュラー争いをしている。そんな熊代に独占インタビューを敢行。社会人時代、そして一軍昇格への裏側に迫った。
「熊代聖人」は特に高校野球ファンにとっては馴染みのある名前だ。2年時から今治西のエースとして3度、甲子園に出場。3年の時は打者としても4番を張り、まさにチームの大黒柱として夏はベスト8進出に貢献した。高校卒業と同時に、熊代は投手から野手へと転向した。プロのスカウトが評価していたのは「エース」の熊代ではなく、「4番打者」としての熊代だったからだ。投手への未練がなかったわけではない。しかし、野球を始めるきっかけを与えてくれた亡き祖父との約束である「プロ野球選手になる」ためにも、熊代は野手への転向を決意した。

 1年目からセカンドとしてレギュラーの座をつかみ、熊代の社会人生活は順風満帆といっても過言ではなかった。ところが08年秋に起きた、いわゆる「リーマンショック」で次々と企業がスポーツから撤退する中、翌年2月、日産自動車が野球部の休部を発表した。事実上の廃部だった。
「まさか野球部がつぶれるわけがないと思っていたので、ショックは大きかったですね。正直、あの時は『高校の時にプロ志望届を出しておけばよかったかな』という気持ちにもなりました。でも、社会人に行ったことが間違いではなかったということを証明したい、という気持ちは常にありました。だから、これまでで一番と言ってもいいくらいがむしゃらに練習していましたね」

 09年秋、王子製紙への移籍が決まった。これが熊代にとって第2の転機となる。日産時代は守備では内野を守り、打順は主に3番を任せられていた。しかし、王子製紙の藤田貢監督が熊代に求めていたのは、全く異なるタイプだった。「足を使った守備と攻撃」。熊代に与えられたのは「1番あるいは2番でセンター」だ。
「新たな自分を発見したというか、それまで詰まっていたものが、ポンと出た感じでしたね。それに外野というポジション、特にセンターはフィールド全てを見渡すことができる。だからどこにボールが飛んできても、“全部、捕りますよ”という感じで、なんだか空間全体を自分が支配しているような感覚なんです。そういう意味では自分の性格に合っていたと思いますね」
 その年の秋、熊代はドラフトで埼玉西武から指名を受ける。投手から野手へ。そして「巧打の内野手」から「俊足の外野手」へ。短期間で2度にも渡る方向転換が熊代をプロの舞台へと押し上げたのだ。

 初スタメンでの会心の一撃

 6月5日、一軍に昇格した熊代は翌日の横浜戦でデビューを飾った。2点ビハインドの9回、先頭打者として打席に立った熊代は空振り三振に倒れた。しかし、決してこれをマイナスには感じてはいない。
「ドラフトの時から“デビュー戦は、緊張で足が震えるんだろうな”と思っていたのですが、意外にも落ち着いていましたね。とにかくくらいついてやろうと思って打席に立ちました。緊張感というよりも、がむしゃらさの方が強かったですね」

 実はそれこそが熊代が一軍に昇格した最大の理由だったのではないかと、本人は分析している。というのも、昇格する前日までのファームでの通算打率は2割5厘。熊代以上の成績を挙げている選手は他に何人もいたのだ。それでも熊代を選んだのはなぜか。
「僕は社会人を経験しているとはいえ、まだ年齢的にも若い。若いルーキーに何を求められるかを考えた時、やっぱり元気の良さとか、がむしゃらさなんじゃないかと思うんです」

 これはあくまでも本人の考えだ。直接、首脳陣から言われたことではない。しかし、必死でボールに食らいつく、そんな若い力が低迷気味のチームの流れを変えるきっかけになることは往々にしてある。熊代はそれを自らの使命として受け止めているのだ。

 デビューから5日後の11日の阪神戦、熊代は初めてスタメンに抜擢された。阪神の先発・能見篤史は力みのないフォームからキレのあるボールを投げてくる。特に能見のフォークボールに熊代は目を丸くした。
「試合前、先輩たちにも『初のスタメンで能見が相手だなんて、オマエもハードラックやな』って言われていたんです。実際、能見さんのボールはすごかったですね。真っ直ぐのキレもそうでしたけど、特にフォークがすごかった。これまで対戦したピッチャーのフォークはふわっと落ちたんですけど、能見さんのは急にドンッと落ちるんです。あんなフォーク、これまで見たことがなかったので、ちょっとビックリしてしまいました」

 しかし、熊代はその能見から1打席目、ヒットを放った。しかも、打ったのはフォークボールだった。
「何が何でもくらいついていこうと思って、必死にバットを出したら、ライトの前にポテンと落ちてくれました。後でビデオを観たら、完璧にボールでしたね(笑)」
 初めてのスタメンの第1打席でヒットが出たことで気持ちが楽になったという熊代は、2打席目、今度は初球のストレートを思い切り引っ張った。
「初球から行こうと思って打席に入りました。真っ直ぐ狙いで、真っ直ぐが来たのでタイミングはピッタリ。会心の一撃でした。しかも能見さんのボールを1球でとらえられたというのが、自信になりました」

 5日現在、15試合に出場し、8安打3打点、打率2割6分7厘。まずまずの成績といっていいだろう。8安打の内訳は右方向に4本、左方向に3本、センターに1本。右、左と打ち分けられるバットコントロールの良さは高校時代からのウリだ。だが、実はそのバットコントロールの良さが、これまではマイナスに働いていたという。
「ファームでよく言われたのはバットコントロールに頼り過ぎて、下半身を使えていないということでした。つまり、小手先だけでごまかしていたんです。『オマエは当てる技術やバットコントロールはもともとあるんだから、下を使いながら打つようになれば、打率はもっと上がってくるぞ』と」

 イースタン・リーグ開幕からスタメンで出場していた熊代だが、3月下旬から7試合連続無安打という時期があった。この時、熊代はプロではこれまで通りの“ごまかし”は通用しないことを実感したという。「下半身をしっかりと使わなければ、プロのボールは捉えられない」。熊代は下半身を意識したフォームへの改造に取り組んだ。その一つがタイミングの取り方だ。これまで熊代はステップする方の足をすり足気味にしていた。重心のブレが少なるという利点があったからだ。しかし、それではどうしても動きがゆっくりとなり、かつ力が出ないために差し込まれてしまう。そこで少し足を上げ、一瞬の間を置くようにしたのだ。そうすることで、内角にも外角にも対応でき、プロのボールに対抗できる力も出るようになった。一軍昇格は、この新たに取り組んだフォームがようやく自分の体になじみ始めた矢先のことだった。

“スタート”と“スライディング”を徹底強化

 さて、熊代に求められているのは一軍でもやはり足である。チームには4年連続盗塁王の片岡易之という最高のお手本がいる。熊代は片岡との違いに2つの大きなポイントを挙げている。「スタート」と「スライディング」だ。
「よく“50メートル○秒”っていう言い方をしますけど、実際に塁間は50メートルあるわけではありません。大事なのはどれだけ早くトップスピードにもっていけるか。片岡さんのすごいところはそこです。僕は一歩目に重心が浮いてしまうクセがあるんです。そうすると、一瞬力が抜けてしまってスピードが出るのが遅くなるんです。そこでスタートを切る時に低い姿勢を保つために頭を落とすイメージで走るようにしています。ただ、まだ実戦でできていないんです。無意識にできるくらいまで体に染み込ませるためには、とにかく練習あるのみですね」

 そしてもう一つ、スライディングでの課題とは。
「片岡さんにはスピードに加えて、スライディングの強さがある。ベースに向かって真っ直ぐにドンという感じなんです。僕の場合は真っ直ぐではなく、少し回ってしまうんです。そうすると、距離も出ますし、ベースにドンといくスピードが失われてしまうんです。これもクセだと思うので、練習を積み重ねていくしかないですね」

 現在、熊代は同じルーキーで、1つ年上の秋山翔吾とライトのポジション争いをしている。一見、「俊足強肩の外野手」という熊代と同じタイプだが、バッティングでの特徴は違う。パンチ力をウリにする秋山に対し、熊代は小技を得意とし、どんなかたちであれ出塁する粘り強さが身上だ。
「秋山さんの存在は、自分にとってすごくいい刺激になっています。同期の活躍を見ると、やっぱり“負けられない”という気持ちになりますからね。近い将来は2人で両翼を守れたらって話をしているんですけど、今はとにかく自分がポジションをとるつもりでやっています」
 相手を蹴落とすくらいでなければ、生き馬の目を抜くプロの世界では生き残れない。熊代にはその厳しさが備わっている。

「マーはプロ野球選手になるんじゃ」。小さな熊代をヒザに抱き、プロ野球を観ながら語りかけるのが祖父の日課だったという。キャッチボールを教えてくれたのも祖父だった。その祖父が亡くなったのは小学2年の時。告別式の日、祖母がくれたアイスの棒に熊代は「絶対プロ野球選手になるけん」と書いて仏壇に供えた――。

 あれから13年の月日が流れた。昨秋のドラフト後、熊代は愛媛に帰省すると、祖父のお墓参りに行った。
「じいちゃん、まずは一つ目のプロ野球選手になるという目標をかなえることができました。これからはテレビに出て活躍している姿を見せるので、これからも見守ってください」
 寮の部屋には祖父の遺影が飾られている。熊代の野球に対するひた向きさ、情熱、そして熊代自身が最も自信があるという気持ちの強さ、それらの原点がそこにある。
 熊代聖人、22歳。身長175センチとプロ野球選手としては小柄な彼の、がむしゃらに、粘り強くフィールドで躍動する姿はファンを魅了し、チームに勢いをもたらせるはずだ。後半戦、さらなる活躍を期待したい。

熊代聖人(くましろ・まさと)プロフィール>
1989年4月18日、愛媛県生まれ。小学4年から野球を始め、中学3年時にはボーイズ・松山プリンスクラブで西四国大会優勝を果たし、全国大会に出場した。今治西高校では2年からエースとして活躍。3季連続甲子園出場を果たした。3年夏にはベスト8進出。秋の国体では優勝した。08年、日産自動車に入社。投手から野手に転向した。同チーム休部により、10年に王子製紙へ。今年、ドラフト6位で埼玉西武に入団。6月5日に一軍昇格した。175センチ、72キロ。右投右打。

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(斎藤寿子)