1707kageura10 影浦心は1995年12月6日、愛媛県松山市に住む影浦家の長男として生まれた。一番大切なのは“心”。両親の想いから心と名付けられた。影浦は「名は体を表す」とばかりに優しい子に育った。

 

 父・誠は社会人ラグビーの名門神戸製鋼の選手。母・いづみはバレーボールで実業団チームに入団するほどの実力者だった。2人の子どもだけあって運動神経は良かった。足の速さにも自信があり、本人も「運動は好きだった」と振り返る。FWをやっていたラガーマンの父に似て身体は大きかったが、ドッヂボールチームに一時入っていたぐらいで、ひとつ熱中するスポーツはなかった。

 

 幼少期、影浦は体格にモノを言わせて、同級生を力で圧倒するようなこともしなかった。母・いづみによれば、「叱った記憶はありませんね。優しさが服を着て歩いているような感じ」と言うほどの人の良さ。「私たちの言うことも聞いてくれましたし、4歳下の弟ことも見てくれていました。メチャメチャいいお兄ちゃんです」

 影浦の面倒見の良さは弟に対してだけではなかった。先生や同級生が重い荷物を抱えていれば、代わりに持ってあげることもあった。まさに“気は優しくて力持ち”を地でいく少年だったのだ。

 

 芽生え始めた“負けず嫌い”

 

 柔道との出合いは影浦が小学4年生の秋だった。母・いづみが友人から松前町にある松前柔道会に誘われたことがきっかけだ。当時の影浦の体型は本人によれば「ぽっちゃり」だった。母も何か熱中できるスポーツがあればとの思いもあったのだろう。

 

 柔道の右も左も分からぬまま連れてこられた道場で、同級生と組み合うこととなった。ここで豪快に相手を投げ飛ばし、才能の片鱗を見せつけた――わけではなかった。むしろ投げられたのは影浦の方で、畳に叩き付けられ号泣したのだった。

 

1707kageura3 力勝負なら負けない同級生に喫した鮮やかな“一本負け”。どちらかと言えば、おっとりしたタイプの影浦の闘争心に火が付いたわけでもない。むしろ本人によれば「メチャクチャ泣きましたし、“絶対やりたくない”と思っていました」という。しかし、気が付けば入会は既定路線になっていたのだ。

 

 柔道家としてのスタートは嫌々だったものの、それでも影浦は松前柔道会をやめなかった。「稽古は厳しかったですし、先生も怖かった」。それでも来る日も来る日も道場に向かっていった。一生懸命さは影浦の取り柄だった。「投げられた友達を投げてやりたいと思っていました。それにどうせやるんだったら勝ちたかった」。いつしか彼に勝負にこだわる感情が芽生え始めていた。

 

 松山西中に進学すると、柔道部に入部した。中学の部活動に加え、松前柔道会にも通い続けていた。この頃には完全に柔道中心の生活。影浦の心は柔道一本に絞られていたのだった。 

 

 身体はさらに大きくなり、徐々に実力もついていった。1年の新人戦で優勝。「ここから楽しんでやれるようになりました」。勝つ喜びを知り、柔道に楽しさを見出していた。体重は90kgを超え、かつて道場で“一本負け”を喫した同級生にも勝てるようになっていた。3年時には全国中学大会90kg超級で5位に入る好成績を収めた。

 

「全中で5位になったことで、いろいろなところからスカウトしていただきました。愛媛では新田高校が有名。“重量級は育たない”という噂はありましたが、愛媛で強くなりたいと決めました」

 関東の強豪校からも声が掛かったが、新田高校は全国大会常連校である。数々の全日本メンバーを輩出していた。影浦は愛媛に残ることを決意したのだった。

 

(第3回につづく)

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1707kageuraPF4影浦心(かげうら・こころ)プロフィール>

1995年12月6日、愛媛県松山市生まれ。階級は100kg超級。松山西中-新田高-東海大。10歳で柔道を始める。新田高2年時には全国高校総合体育大会で3位に入った。東海大進学後、2年時には全日本ジュニア体重別選手権大会と講道館杯全日本柔道体重別選手権大会で3位になった。3年時はアジア選手権大会、グランプリ・デュッセルドルフと国際大会で優勝。講道館杯では2年連続3位だった。身長180cm、体重115kg。得意技は背負い投げ。

 

(文・写真/杉浦泰介)

 

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