日本代表の18年が終わった。やれなかったのではなく、やらなかっただけ。そう痛感させられた1年だった。
半年前、コロンビアに勝てると信じていた日本人がどれだけいたことだろう。勝ちたい、勝ってくれと祈っていた人間ならばたくさんいた。けれど、それはJ2、J3のチームがJ1のチームと対峙したときの心境に似通ったものではなかったか。
だが、試合早々に相手が10人になったことで、そして1人少ない相手に追いつかれたことで、ロシアでの日本代表は目を覚ました。どこかで自分たちのかなう相手ではないと思い込んでいた南米の強豪が、追いついたことで安堵している。このまま終わってもいいというサッカーに切り替えている。コロンビアは手の届くところにいて、11人の自分たちを恐れている。
そのことに気づいた選手たちは、史上初めて、W杯で南米のチーム相手に勝ちにいった。勝てたらいいな、ではなく、勝たなければならない相手としてプレーすることになった。
そして、勝った。
相手が10人だったことを揶揄する人はいる。それでも、コロンビア戦での勝利は、長く日本人の心根に巣くっていたコンプレックスを大幅に取り払う、歴史上極めて重要な勝利だった。
その流れを、見事なまでに引き継いだのが森保監督だった。
ロシアでつかんだ自信が大きかったというのもあるが、それにしても、彼のチームには卑屈な気配がどこにもない。どうせ日本人だから。どうせ世界の一流どころにはかなわないから。そんな前提に立って、結果以外に見るべきところのないサッカーを目指した監督とは、最初の立ち位置からしてまるで違っていた。
選手たちの意識も、変わりつつある。
先週末のベネズエラ戦で、思わず目を瞠ったシーンがあった。
センターサークル付近で相手の縦パスをカットした遠藤が、迷うことなくダイレクトで縦へのスルーパスを狙ったシーンである。
同じことをやったのが青山だったとしたら、それは驚きでもなんでもない。効果的なパスは、もっとも効果的なタイミングで放つ。それこそが、青山という選手の真骨頂だからである。
だが、基本的には安全第一で黒子に徹する機会の多かった遠藤の、明らかに青山を彷彿させるプレーには、腰を浮かせてしまった。
彼は、やらなかったことをやろうとしている。
結果的に、遠藤の放ったパスはそのまま相手へと渡り、決定的な形にはならなかった。それでも、いままでやらなかったことに挑戦し、やれるようになろうとした遠藤の姿勢が、わたしには素晴らしく好ましかった。
4年ごとに方針と哲学を総取っ換え。そんな歴史を日本のサッカーは刻んできた。だが、18年秋のチームはロシアでの経験と流れを踏まえ、さらなる高みを目指そうとしている。
いい1年だった。ひょっとしたら、日本サッカーの分岐点として語られることになる1年だった。そんな1年を見せてくれた、18年の日本代表にありがとうと言いたい。
<この原稿は18年11月22日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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