愛媛県宇和島市に住む田中家の次男としてSHOは生まれた。彼にとって最初のヒーローは、アクション俳優のジャッキー・チェン。保育園に通っていた頃に観た映画『サンダーアーム/龍虎兄弟』がきっかけだった。漠然とした強さへの憧れがあったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 母・成子(しげこ)によれば、『酔拳』のジャッキー・チェンの真似をしていたことが記憶に残っているという。そして幼少期を述懐する。

「とても優しい子です。聞き分けが良く、手がかからなかった。すごくしっかりしていて、4歳でフライパンを持ち、自分で料理を作って食べていましたね」

 

 一方、父・成徳(しげのり)は、こんなエピソードを明かした。

「運動神経は良かったと思う。でも保育園の運動会で徒競走があると、一番を目指すのではなく、仲の良い友達と一緒にゴールするような子でした」

 

 争うことよりも、協調することを選ぶ子だった。SHOは海や川など自然の中で遊び、わんぱくな少年時代を過ごした。負けず嫌いが表出してきたのは、小学4年からサッカーを始めてからだ。

 

 ポジションは主にゴールキーパー。彼がサッカークラブに入団する前年は、日本が初めてW杯に出場した年である。その頃のヒーローは、当時の正ゴールキーパー川口能活。超人的なスーパーセーブを連発していた守護神に憧れ、中学時代には南予選抜の選考会に参加するほどの実力だった。

 

 高校は2歳上の兄が通う宇和島水産に入学した。進学理由は海や魚が好きだったからだ。ちょうどその頃、サッカー同好会から部活動に変わるタイミングだった。しかし入学後も部員が少なく、大会は他校との合同チームを組むしかなかった。次第にサッカーへの情熱は薄れていった。

 

 SHOがレスリング部に入ったのは、部の先輩から誘われたのがきっかけだ。友人たちと入部を決意した。「動機は不純でしたね。レスリングを始めたら喧嘩が強くなるかなと。そんな軽い気持ちだった」。入部したばかりの頃は競技を甘く見ていたが、すぐに目を覚ませられた。

 

“プロレスラーになりたい”

 

 宇和島水産にはレスリング専用のマットがなく、練習は主に県内の強豪である八幡浜工業へ出向くことが多かった。

「宇和島水産にはレスリング場がないので、よく八幡浜工業へ練習に行っていました。最初、自分よりも軽い級の選手にボコボコにされた。そこで“井の中の蛙だな”と思い知らされましたね。それからは練習を真面目にやるようになりました」

 

“強くなりたい”というモチベーションを加速させたのはプロレスとの出会いだった。ある日、レスリング部の1学年後輩にプロレス好きがいた。「かっこいいじゃないですか!」と後輩が目を輝かせながら教えてきたのが、当時“太陽の天才児”と呼ばれていたプロレスラーだった。そのプロレスラーの名は棚橋弘至。SHOが新日本プロレスに入門後も「努力した超人。センスがあり、努力もする野球のイチローさんのような感じの人です」と、尊敬してやまない先輩である。SHOは後輩から手渡された携帯電話の動画で、ひときわ輝きを放つ超人に心を奪われたのだった。

 

 とはいえ、この時は“プロレスラーになる”というよりも“格闘家になりたい”との想いだった。コツコツと努力を続け、レスリングの実力は県大会で2位に入るほどになった。

「その時、決勝で負けた悔しさが残っていたので、“大学でもレスリングを続けたい”と思うようなりました。その一方で“プロレスラーになりたい”という気持ちも強くなっていた」

 

 大学は愛媛から離れ、山口にある徳山大学に進んだ。レスリングの強豪である徳山大に進学できたのは、八幡浜工業の栗本秀樹監督が徳山大の守田武史監督(現・顧問)に口添えをしてくれていたからだ。守田監督はこう証言する。

「栗本先生からご紹介をいただいたんです。『レスリング経験は浅いけど、将来プロレスラーレスラーになりたい子がいる。とにかく真面目な子です』と」

 

 そのおかげもあり、スポーツ推薦で入学することができた。守田監督は「メンタルが強く物怖じしない子でした」と、SHOの大学時代の印象を語る。

「体幹が強く姿勢のバランスがすごく良かった。そういったセンスを感じましたが、彼は練習熱心でスパーリングは他の学生と比べても倍ぐらいやっていた」

 

 非エリートという自負が、SHOのハングリー精神を失わせなかった。

「小学校の頃からやってきた人たちやインターハイで上位に入る人たちもいた。自分は高校時代の実績もないので、学費免除ではなかった。アルバイトも禁止でしたし、親に仕送りをしてもらっていました。自分は“レスリングがしたい”と大学に行かせてもらっている身だったので、練習はとにかくやりました」

 

 棚橋からの一言

 

 とはいえ、すぐに結果を残せるほど順風満帆ではなかった。試合は出ても早々に敗退してばかり。大学2年時には肘を脱臼した。ケガから復帰した後も恐々と練習に参加していると、コーチからは「オマエはウエイトだけやってろ!」と厳しい声が飛んだ。SHOからすれば「戦力外」の烙印を押されたような心境だったという。

 

「皆がマットでスパーリングに打ち込んでいる時、自分はウエイトトレーニング場で、ひたすら鍛えていました。“ウエイト組”と呼ばれ、ほぼ1年間はウエイトばかりやっていたと思います」

 雌伏の時は貴重な期間だった。ケガしていた箇所の不安も取り除かれ、力もついていった。コーチから「今日からマットに来い」と言われ、スパーリングに参加すると、相手をどんどんなぎ倒せるようになっていたのだ。

 

 在学中にモチベーションを高める出会いもあった。新日本プロレスの周南大会を現地で観戦したのだ。SHOが生でプロレスを観るのは初めてだった。「すごい声援をもらっているレスラーを見て“俺もああなりたい”と思いました」。会場で開催された棚橋のサイン会にも参加した。

 

 その場で「いい身体してるね」と声を掛けられた。「自分はプロレスラー目指しています!」とSHO。すると棚橋は「待ってるよ」と返事をした。憧れの人にそう言われ、SHOのやる気が出ないはずはない。

 

 愚直に努力を続けた結果は、レスリング部の副キャプテンを任された大学4年で花開いた。「相手がバテてきたところを力で持っていく。ようやく4年になって自分のスタイルができてきた」。全日本学生選手権グレコローマンスタイル84kg級3位、西日本学生選手権フリースタイル同級準優勝、国民体育大会出場などの実績を残した。

 

 同期たちが就職活動に励む頃、SHOは棚橋との出会いもあり、進路希望は固まっていた。職業はプロレスラー、就職先は新日本プロレス。新日本プロレスの入門テストで、のちのタッグパートナーとなる男と出会うのだった――。

 

(第3回につづく)

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SHO(しょー)プロフィール>

1989年8月27日、愛媛県宇和島市生まれ。小学4年からサッカーを始める。高校3年からレスリングに転向。徳山大学では全日本学生選手権グレコローマンスタイル84kg級3位、西日本学生選手権フリースタイル同級準優勝などの実績を残した。卒業後の12年、新日本プロレスに入門。同年11月、デビューを果たした。16年から同期のYOHと共に無期限の海外修行に出た。17年10月にYOHと帰国。新ユニット“Roppongi 3K”としてIWGPジュニアタッグ王座を奪取した。11月にはSUPER Jr. TAG LEAGUEを制覇。現在3連覇中である。今年1月にIWGPジュニアタッグ王座を奪還し、2度の防衛に成功している。身長173cm、体重93kg。

 

(文・プロフィール写真/杉浦泰介、競技写真提供/新日本プロレス)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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