2006年11月3日に行われたヤマザキナビスコ杯決勝、ジェフユナイテッド市原千葉は、鹿島アントラーズを破ってタイトルを獲得した。

 

 リーグ戦では中位に燻っているチームが優勝したことは嬉しい。しかし、要田勇一は、巻誠一郎たち主力選手のように嬉々とした表情でカップを掲げることはできなかった。前夜のミーティングで監督のアマル・オシムが口にした「このチームには戦える選手は13人しかいない」という言葉が頭から離れなかったのだ。

 

 決勝で試合に起用されたのは「13人」。ベンチに座っていた自分に出場機会は与えられなかった。つまり、アマルの構想に入っていないということだ。

 

 11月は、チームの主力となりきれていないJリーガーにとって憂鬱な時期だ。

 

 契約上、クラブは11月末までに来季契約の意思があるかどうかを選手に伝えなければなければならない。なければ0円提示となる。つまり、クビである――。

 

 ヤマザキナビスコ杯決勝後、リーグ戦で要田の出場機会が急に増えた。直後の11月11日に行われたアルビレックス新潟戦で後半頭から中盤の佐藤勇人に代わって入っている。2点のビハインドで巻とツートップを組んだ。後半は両チーム1点ずつを取り、1対3。要田は無得点。

 

 続く19日のガンバ大阪戦でも、0対0で後半から巻の代わりにワントップに入った。ガンバのマグノ・アウベスが得点を挙げて、試合は0対1の敗戦。

 

 23日のサンフレッチェ広島戦では今シーズン初めての先発出場をしている。やはりフォワードひとりのワントップである。

 

 ジェフは上位に食い込む可能性も、降格の危機もなかった。来季に向けて誰が使えるのか、監督のアマル・オシムは現有戦力を試しているようだった。

 

 要田はこう振り返る。

「試合に起用してもらえるのは嬉しかったです。ただ、ぼくは身体が大きくないし、ワントップを張るのはつらい。巻のようなターゲットになる身体の大きな選手がいて、その周りを走り回ることで自分の良さが出る」

 

 言い訳をすべきではないということは分かっていた。ただ、身体の小さな自分をワントップで使うというのは、Jリーグで通用しないということを分からせるためではないかという疑いが拭えなかった。とにかく自分に出来ることは必死で走り回り、得点に絡むことだ。しかし、その思いは実らない。無得点のまま80分に同じフォワードの青木孝太と交代。青木はこれがJリーグ初出場となった。

 

 1987年生まれの青木は、このシーズンに滋賀県立野洲高校からジェフに入った。野洲高校は全国高等学校サッカー選手権で優勝、個人技を重視したパスサッカーは「セクシーフットボール」と呼ばれた。1学年下に、後に日本代表に入る乾貴士がいた。19才以下の日本代表に選ばれており、次代のジェフを担うフォワードとして期待されていた。

 

 オフ・ザ・ピッチの貢献

 続く26日のヴァンフォーレ甲府戦でも要田は、ワントップとして先発出場した。試合開始直後に甲府が先制。ジェフも阿部勇樹の得点で同点に追いつた。しかし、再び甲府が得点を挙げて、前半を1対2で終えた。

 

 後半、要田に代わって青木がピッチに入った。ジェフは58分に羽生直剛の得点で同点に追いつき、さらに78分、青木が決勝点を挙げた。

 

 怖い物しらずで登り調子の青木、イビチャ・オシムが掛けた魔法が解けようとしていた要田――対照的な2人だった。

 

 この頃、要田の代理人を務めていた、辰己直祐氏は、チームの編成責任者、祖母井秀隆ゼネラルマネージャーと来季の契約について話し合っていた。

 

 要田はピッチの中で結果を残していなかったが、それ以外の功績があると彼は考えていた。

 

 1つは水本裕貴のことだ。

 

 水本は三重高校から2004年にジェフに入っている。祖母井に絶対に水本を獲った方がいいと強力に推したのは、辰己氏だった。半年後、要田がパラグアイから帰国した。18才以下日本代表にも選ばれていた水本は、将来を嘱望されていたディフェンダーだった。才能ある選手はたくさんいる。それが大きく育つかどうかは、若手時代をどう過ごすか、だ。そこで辰己氏は、水本の面倒を見てくれと要田に頼んだ。

 

「水本は三重県、広い意味での関西圏。同じ関西弁だし、付き合いやすい。有望なJリーガーにはよくない取り巻きがつきがち。だからこそ、きちんとした年上の人間が守ってあげなければならない」

 

 水本などジェフの若手選手は入団から3年は寮に入るという内規があった。20代後半の要田は寮に入る義務はなかったが、入団以来寮生活をしていた。試合、練習に集中するには寮が都合が良かったのだ。

 

 要田はこう言う。

「自分はパラグアイから帰ってきたじゃないですか。食事がきちんと取れるというのがすごく嬉しかった。だから、全部食べてました。若い子はそのありがたみが分かっていないのが残念でしたね」

 

 前年のシーズン終了後、結婚することになり寮を出ることになった。それでも関西に住んでいた妻が来るまでの半年間は、自転車で自宅から5分ほどの寮の食堂に通っている。

 

 寮を出た後も、要田は水本を自宅に招いてしばしば妻の手料理を振る舞っていた。水本は2006年10月4日のガーナ戦でオシムにより日本代表に初選出されている。水本の成長には要田の支えがあった。水本の他、佐藤勇人や茶野隆行たちも主力選手も、出場機会が少なくとも腐らず、黙々と練習する要田に敬意を抱いていた。ピッチで結果が残せていないにしても、それなりの評価をすべき選手だと考えていたのだ。

 

 しかし、祖母井の口から出たのは思っていない内容だった。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。最新刊は「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。

2019年より鳥取大学医学部附属病院広報誌「カニジル」編集長を務める。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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