2006年11月、辰己直祐氏はジェフユナイテッド市原千葉所属の要田勇一の代理人として祖母井秀隆ゼネラルマネージャーと会うことになった。祖母井は「要田君には0円提示という形になります」と申し訳なさそうに切り出した。

 

 0円提示とは、クラブ側に来季の契約意思はないということだ。クビである。

 

 父、イビチャ・オシムからシーズン途中に監督を引き継いだアマル・オシムは、要田をベンチに留め置いていた。そのため来季の契約は難しいだろうと予想していた。耳を疑ったのは、続けて祖母井が軽口を叩くようにこう言ったことだ。

 

「あのとき、彼が11番にこだわっていなかったら、もう1年ジェフにいられたかもしれないね」

 

 空き番号のはずだったが……

 少し時計の針を戻す。

 

 この連載でも触れたように、ジェフの背番号「11」は2004年シーズン末に村井慎二がジュビロ磐田に移籍した後は空き番号となっていた。要田が密かに憧れの選手である三浦知良と同じ番号をつけたがっていることを辰己氏は知っていた。そこで祖母井GMに空き番号であることを確認、2006年シーズンから要田が背番号11番をつけさせてもらいないかと頼み、快諾を得ていた。

 

 ちょっとした問題が起きたのはその後だった。

 

 ジェフの若手選手の一人が「11番」をつけたいと言い出したのだ。年代別の日本代表にも選ばれていた彼はチームが売り出している選手でもあった。祖母井GMは「分かった」と安請け合いをしたようだ。その後で要田に11番を渡したことを思い出したのだろう、すぐに辰己氏に電話を入れた。

 

「辰己、申し訳ないんだけど、要田に11番を譲って欲しいと頼んでくれないか」

「それ、順番違うんじゃないですか」

 

 思わず、辰己氏は言い返した。

 

 11番を欲しがっている若手選手もこの時点では完全なレギュラーではない。すでに要田が11番を約束してしまったと説明すればいいだけの話ではないか。

 

 すると、受話器の向こうで「いや……」と口ごもる声が聞こえた。

 

 辰己氏と祖母井GM二人は報徳学園高校サッカー部の先輩後輩関係である。祖母井GMは選手の目利き、指導には能力はあるものの、性格が優しい。ときに優しさは優柔不断となる。そのため一時期、辰己氏がジェフのGM補佐として支えていた時期もあった

 

 辰己氏はまずは要田と話をしてみますと、電話を切った。

 

 当然のことながら、要田は暗い顔になった。彼にとってJ1のクラブで好きな番号をつける機会は最初で最後だろう。必死にチームのために動いている要田に好きな背番号をつけさせてやりたい。その若手選手に要田ほど「11」にこだわりがあるようには思えなかった。辰己氏は、その若手選手と気まずくなってもいいねと要田に念押しして、11番は譲れないと言っていると祖母井GMに返した。彼が若手選手に謝って、別の背番号を選ばせることになった。

 

 シーズン終了後になって、そのときの話を持ち出したのだ。

 

「あのとき、11番を譲れば要田と複数年契約してくれるって言いましたか」

 

 辰己氏は思わず声を荒げると、「いや、そういうことじゃ」と慌てて大きく首を振った。

 

 普段の練習から力を抜くことのない要田は水本裕貴たちジェフの若手選手の見本となっていた。前監督のイビチャ・オシムはそんな要田の、“オフ・ザ・ピッチ”の部分を高く評価していた。そんな監督だからこそ、控え選手を含めてジェフは一つのチームとなっていた。もうそんな時代は完全に終わったのだと辰己氏は悲しくなった。

 

 トライアウトの難しさ

 要田にとっても戦力外通告は、ある程度、予測されたことだった。このとき29歳。まだスパイクを脱ぐつもりはなかった。しばらくして、J2のクラブから獲得打診の連絡が入った。しかし、家族のいる要田にとって金銭的に好条件とは言えなかった。そこで、Jリーグ合同トライアウトに参加することにした。

 

 合同トライアウトは、シーズン終了時点で所属クラブのない選手が参加、各クラブのスカウトが力量、状態を自分の目で確認する場である。この年のトライアウトには、ヴィッセル神戸時代の和多田充寿、あるいは横浜FCの水原大樹などの先輩、同じ年の船越優蔵などが参加することになった。12月に行われた第1回の合同トライアウトは大阪の長居陸上競技場が会場となっており、要田は水原と一緒に大阪入りした

 

 トライアウトは数十分の試合形式で行われる。時間が限られている上に、ピッチに立つ選手たちの組み合わせは選べない。そのため自分の得意なポジションで必ずしもプレーできるわけではない。みなが自分の持ち味を出すのに必死で、普段のようにチームメイトの助けはあてにできない。要田は得点を挙げることもなく、不完全燃焼で終わった。トライアウトの後、どこのクラブからも連絡はなかった。

 

 年が明けた1月、フクダ電子アリーナで第2回のトライアウトが行われた。

 

 これが最後のチャンスになるだろうと要田は覚悟していた。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。最新刊は「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。

2019年より鳥取大学医学部附属病院広報誌「カニジル」編集長を務める。公式サイトは、http://www.liberdade.com


◎バックナンバーはこちらから