サッカーの監督はオーケストラの指揮者のようなものだ。どのパートに誰を配置して、化学反応を起こさせるのか、頭の中で組み立てる。有能な監督は、選手の持っている能力を極限まで引き出し、1+1を2以上にする、術をそれぞれ持っているものだ。

 

 2006年ワールドカップ、ドイツ大会でジーコが率いる日本代表は惨敗、ジェフユナイテッド市原千葉の監督だったイビチャ・オシムが後を引き継いだ。

 

 クラブチームの監督は限られた選手の中から自分のサッカーに合う人をピックアップ、そうでない場合は育てる。一方。代表チームの監督は日本国籍を持つすべての“完成品”を集めることが可能だ。誰を代表に選ぶのかが、どんなサッカーをやるのかという明快なメッセージとなる。

 

 オシムの方向性がはっきりと出たのは、就任2試合目、8月16日のアジアカップ予選のイエメン戦だった。先発メンバーに阿部勇樹、巻誠一郎、そして控えに羽生直剛、佐藤勇人とジェフの選手が入ったのだ。後半から出場した羽生、佐藤勇人はこの試合が代表初キャップとなった。

 

 オシムのサッカーは少々特殊であるため、自分の考えを理解しているジェフの選手たちを必要としていた。試合は順当に2対0で勝利している。

 

 前任者のジーコは欧州クラブに所属する選手たちを重用した。巻がワールドカップメンバーに滑り込んだものの、ジェフの選手にとって代表はやや遠い存在だった。オシムの薫陶を受けた若手選手にとっては目の前が開けたようなものだったろう。

 

 そんな中、要田勇一の顔は暗かった。

 

 ジェフの後任監督にはオシムの息子、アマルが就いた。リーグ戦再開初戦、7月19日の第13節ガンバ大阪戦から10月14日の第27節の鹿島アントラーズ戦まで、ベンチに座った要田が途中出場したのは3試合のみだった。

 

「試合に出られないのはいいんです。オシムさんのときはベンチ入りできなくても、不満はなかった。もっとやらなきゃ、自分の良さを練習から出さないといけないと思っていた」

 

 オシム時代、ベンチに入るということは、何らかの形で試合に使われるという意味だと要田は理解していた。そのため、ベンチに入ると、自分が入れば何をすればいいのか、感覚を研ぎ澄ませて試合を見ていた。アマルになってから、漫然と試合を眺めるようになっていた。そして知らず知らずのうちに不満を溜めていた。あるとき、妻から、“最近、愚痴が多いよ”と言われて要田は、はっとした。

 

 アマル体制となり、出場機会が増えたのはネボイシャ・クルプニコビッチだった。

 

 セルビア出身のクルプニコビッチは、97年から2シーズン、ガンバ大阪でもプレーしたこともある中盤の選手だった(登録名はクルプニ)。アマルはクルプニコビッチをフォワードの巻とマリオ・ハースのやや後ろ、シャドー・ストライカーとして起用した。ただし、この策が当たったとはいえなかった。再開後、ジェフは勝ちと負けがほぼ同数のぐずぐずした成績が続いていた。2シーズン、上位に食い込んできたチームの戦いぶりではなかった。

 

 アマルにとって不運だったのは、比較の対象が名将である父であったことだ。調子が上がらないため、フォーメーションをいじったが、裏目に出た。フォーメーションとは、個々の選手の組み合わせを考え、その力量を最大限に引き出すためのものだ。先にフォーメーションありき、ではない。父と比較される、視線を感じてアマルも焦っていたはずだ。

 

 首を傾げざるを得ないアマルの言葉

 10月21日、第28節大宮アルディージャ戦で要田はとうとうベンチから外れた。続く第29節の名古屋グランパス戦でベンチ入りしたが、試合には起用されなかった。チームは連敗している。

 

 リーグ戦と並行して行われているヤマザキナビスコ杯は、9月3日と20日に準決勝が行われた。

 

 川崎フロンターレとの第1戦の終了間際、要田はハースに代わって3試合ぶりに公式戦のピッチを踏んでいる。準決勝は第1戦、2戦ともに引き分け。延長戦で阿部が得点を決めて、ジェフが決勝に進出した。

 

 11月3日、決勝の相手は、鹿島アントラーズだった。

 

 決勝戦に備えて、ジェフの選手たちは都内のホテルに前の日から宿泊していた。ホテルで行われたミーティングで、アマルの口から出た言葉に、要田は首を傾げた。

 

「このチームには戦える選手は13人しかいない」

 

 13人とはどういう意味だ。しばらく考えて、レギュラー扱いの11人に加えて、途中出場が多い工藤浩平と水野晃樹までを戦力という意味だとわかった。

 

 隣に座っていた、やはり同じく控えが多かった楽山孝志と要田は顔を見合わせた。

 

「俺ら、なんなんやろ」

 

 自分たちはレギュラーと比べて力は落ちるかもしれない。しかし、チームのため、必死にやってきたつもりだった。やはり自分たちはアマルの視野に入っていなかったのだと、落胆した。

 

 アマルの真意は分からない。明日の試合に向けて士気を鼓舞するつもりだったのは間違いない。しかし、父であるオシムならば、仮に思っていたとしても絶対に言わないセリフだった。

 

 決勝は、水野、阿部が得点を決めて2対0で勝利。ジェフは2年連続でリーグカップのタイトルを獲得した。彼が90分で使った交代は2人。アマルは宣言通り、13人でタイトルを獲得したのだ。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。最新刊は「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。

2019年より鳥取大学医学部附属病院広報誌「カニジル」編集長を務める。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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