力強いスパイクを武器に日本代表としてコートで輝きを放った大山加奈さん。しかし活躍の裏には、人知れぬ心と体の葛藤があった。苦悩を乗り越えた今、感じることは何か。当HP編集長・二宮清純と語り合う。

 

二宮清純: 昨年、双子のお子さんを授かったそうですね。おめでとうございます。

大山加奈: はい。昨年2月に双子の女の子を出産しました。おかげで今はバレーボールの仕事より、子育てや不妊治療に関する仕事が増えました。

 

二宮: 不妊治療を経ての出産だったんですか。それは知りませんでした。

大山: 31歳で結婚したのですが、現役時代に体を酷使していたので、何となく「私は授かりにくいだろうな」という思いがありました。それで、結婚後すぐに病院に通い始めたのです。途中2年間休みましたが、結局5年かかりました。

 

二宮: そうでしたか。女性アスリートには、不妊治療を受けられている方が多いと聞いたことがあります。

大山: そうですね。周囲の同世代のアスリートにも、不妊治療をしている人は多いですね。

 

二宮: 理解者がそばにいないと、1人で悩みを抱え込むこともあるでしょうね。

大山: はい。私もその1人でした。アスリートは、精神的にも肉体的にも過度なストレスに耐えながらトレーニングをすることが多く、それが体に悪影響を与えているように思います。私の場合は、とても体温が低かった。35度台が常態化していて、34度台の時もありました。それもあって、早めの不妊治療を決断したのです。

 

二宮: 34度台は低いですね。低体温の原因は?

大山: 24歳の時に脊柱管狭窄症とヘルニアを併発して、腰にメスを入れたのですが、病院の先生には「それが大きな原因の一つではないか」と言われました。

 

二宮: 大山さんの現役時代は、けがとの闘いでしたからね。二年の休みがあったとはいえ、不妊治療は大変だったのでしょう。

大山: 大変でしたね。体の負担はもちろんですが、友達に子どもが生まれたと聞いても素直に喜べなくて、心もつらかった。それに、経済的にも大変でした。今年4月から保険が適用されるようになりましたが、当時はまだ自費で、1回の治療で60~七70万円かかることもありました。

 

二宮: そんなにかかったんですか。それでなくとも少子化が加速しているわけですから、もっと手厚い支援があってもいいですね。不妊治療といえば男性の理解・協力が不可欠ですが、ご主人の反応はどうでしたか。

大山: 私が頑固で、一度言い出したら聞かないことを分かっていたので、「やってみれば」という感じでした。でも、今は子どもを溺愛してくれています(笑)。妻が精神的にも、肉体的にもつらい状態にあった場合、夫の理解がないと「私がこんなにつらい思いをしているのになぜ……」という心のすれ違いが生まれてしまいます。だからこそ、不妊治療に当たっては夫婦でよく話し合うことが大事だと思います。

 

二宮: お子さんはまだ小さく、しかも双子とあっては目が離せませんね。

大山: 悪戦苦闘の日々です(苦笑)。でも、産後のいちばん大変な時期に、新型コロナの感染拡大の影響で夫がずっと家にいてくれました。それが本当にありがたかった。もし、夫がそばにいなかったら、乗り越えられなかったかもしれません。その意味では、男性の育児休暇は、どの家庭においてもマスト(必要)だと思います。

 

二宮: 男性の育児休暇については、だいぶ社会的なコンセンサス(合意)が得られてきたとは思いますが、まだ不十分だと感じます。

大山: お父さんが少しでもオムツ替えをすれば褒められるのに、お母さんが一日中子どもの世話をしても誰も褒めてくれません(苦笑)。「子どもは、お母さんが育てるのが当たり前」という社会の価値観を変えなければ……。

 

二宮: ここで少し過去を振り返っていただきたいのですが、バレーボールを始めたきっかけは?

大山: 単純に身長が大きかったからです(笑)。私が住んでいた江戸川区(東京都)は、バレーボールが盛んな地域で、強いクラブチームもありました。それで、私が小学校に入学した時点で「大きい子がいるぞ」とうわさになって、先輩が声をかけてくれたんです。

 

二宮: その後、小学校・中学校と全国制覇を成し遂げたわけですが、やはり夢は五輪出場でしたか。

大山: そうですね。小学6年の時にアトランタ五輪があって、大林素子さん、大懸(現姓・成田)郁久美さん、吉原知子さん、多治見麻子さんなど、そうそうたるメンバーがコートで輝きを放っていました。それを見て、「いつか五輪の舞台に出たい」と思うようになりました。

 

二宮: その後は、名門・成徳学園高校(現・下北沢成徳高校)に進学し、主将としてチームを3冠(インターハイ・国体・春高バレー)制覇に導きます。特に、三田尻女子高校(現・誠英高校)の栗原恵さんとの「メグカナ」対決はバレーボールファンのみならず、世間の注目の的でした。

大山: 高校時代は、楽しい思い出がたくさんありますが、中でも高校2年の春高バレー決勝(対三田尻女子)は、私の生涯のベストマッチです。それこそ、メグにスパイクを決められてもうれしいと感じるほど充実していて、「このままずっと試合をしていたい」と思いました。それに、技術面の進歩を感じられたのもうれしかったです。

 

二宮: 具体的に言うと、どのような技術ですか。

大山: 私は右利きでポジションがレフトだったので、どうしてもスパイクがクロス中心になり、ストレートに苦手意識がありました。でも、この試合ではストレートをしっかり決め切ることができたんです。

 

二宮: 何か特別な練習をしたのでしょうか。それとも、コツのようなものをつかんだ?

大山: コツというか、目の使い方ですね。表現が難しいのですが、右目主体でボールを追っていたものを、左目主体で捉えるようにしたのです。

 

二宮: それは初めて聞きました。ボールの見方を変えるだけで、そんなに違うものとは……。

大山: 全く違います。コーチのアドバイスだったのですが、練習の成果がこの試合で発揮されました。

 

(詳しいインタビューは7月1日発売の『第三文明』2022年8月号をぜひご覧ください)

 

大山加奈(おおやま・かな)プロフィール>

1984年6月19日、東京都江戸川区出身。小学2年生時に、バレーボールを始める。成徳学園高校(現・下北沢成徳高校)では、主将としてインターハイ・国体・春高バレーの3冠を達成し、小中高すべての年代で全国制覇を経験した。高校卒業後は、東レアローズ女子バレーボール部に入部。第10回Vリーグ(2003-04年)では、新人賞を獲得した。日本代表には高校在学中の01年に初選出され、五輪・世界選手権・ワールドカップと三大大会すべての試合に出場。力強いスパイクから「パワフルカナ」の愛称で親しまれ、日本を代表するプレーヤーとして存在感を発揮した。10年に現役を引退し、現在は講演活動やバレーボール教室、解説、メディア出演など多方面で活躍。バレーボールのみならず、スポーツ界全体の発展に力を注いでいる。


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