えっ、もう入団発表? 27日付の本紙1面の写真を見て驚いた。Cのロゴが入った真っ赤な帽子。見出しは「秋山 広島」。シンシナティ・レッズ時代の写真だが、パッと目にしただけではユニホームを含めカープのそれと見分けがつかなかった。

 

 カープが“赤ヘル軍団”と呼ばれるようになったのは球団創設26年目で初優勝を果たした1975年からだ。その年のオールスターゲーム第1戦で、カープの主軸を打つ山本浩二と衣笠祥雄が、それぞれ3番と6番に起用され、ともにホームランを2本ずつ放った。4年前に他界した衣笠から、生前に聞いた話。「翌日、スポーツ紙にデカデカと“赤ヘル軍団”という見出しが躍った。といっても当時は、帽子とヘルメットだけが赤で、アンダーシャツは昔の紺のままだったけどね」。そして、続けた。「最初の頃は恥ずかしかったよ。“オマエたちはちんどん屋か”とヤジられてね。帽子は真っ赤だけど、こっちは真っ青だったよ(笑)」

 

 紺色の帽子やヘルメットを赤に変えたのが74年に1軍打撃コーチとして来日し、75年に監督に昇格したジョー・ルーツである。「赤は戦いの色。今季は闘争心を前面に出す」。赤い帽子にCのロゴ。75年版のロゴは紺だった。

 

 当時、メジャーリーグで、これと似た帽子を被っているチームがあった。というより、こちらが本家。ルーツが72年から73年まで打撃コーチをしていたクリーブランド・インディアンスである。カープのCはクリーブランドのCに通じる。つまりカープの帽子は“インディアンス由来”というのが、今では“広島カープ学会”の定説になっている。

 

 だが、それを鵜呑みにしていいものか。というのもルーツがインディアンスに在籍していた72年はア・リーグ東地区5位、73年は最下位と全く精彩を欠いているのだ。どん底のチームをルーツが「赤は戦いの色」といって称揚し、手本にしたというのも不自然な話である。

 

 私見を述べれば、ルーツが理想としたのは、スパーキー・アンダーソン監督自ら「赤は戦いの色」と広言していたレッズだったのではないか。70年代、レッズは4度のナ・リーグ王者(70、72、75、76年)と2度(75、76年)のワールドチャンピオンに輝いている。70年代前半はレッズのいわば勃興期。海兵隊上がりの若き打撃コーチの目に、闘将に率いられた“ビッグレッドマシン”の姿は輝いて見えたはずだ。

 

 さてレッズに続いて赤いユニホームに袖を通す秋山翔吾。シンシナティの仇を広島で討ってもらいたいものだが、果たして……。

 

<この原稿は22年6月29日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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