2007年1月、フクダ電子アリーナでJリーグ合同トライアウトが開催された。このシーズンオフ、11月に続く2度目だった。

 

 長居陸上競技場での第1回終了後、要田勇一を獲得しようというクラブは現れなかった。このトライアウトが自分が現役を続ける最後のチャンスになるだろうと要田は覚悟していた。

 

 合同トライアウトは短時間のゲーム形式で行われる。フォワードである要田にボールが渡る機会は限られている。ボールがない場所でもきびきび動き出すことを意識した。

 

 そもそも――。

 

 選手たちはスカウトの目に留まることを熱望して、必死に力を出し切ろうと意気込むものだ。ただし、トライアウトに参加しているのはJリーグ経験のある、一定以上の実力者の中で突出するのは難しい。他よりも明らかに輝く能力があれば、所属クラブが手放すことはなかったろう。ではスカウトは何を見ているのか。ほとんどは、シーズン中から目をつけていた選手のコンディション確認である。クラブ側の補強ポイントと合致する選手であり、資金的な余裕も必要だ。かなり狭き門である。

 

 2回目のトライアウトの後、1つのクラブから打診が入った。

 

 AC長野パルセイロである。

 

 プロ化1年目の目玉

 

 パルセイロは長野県北信地域の高校サッカー部卒業者を中心とした長野エルザサッカークラブを前身としている。前年の2006年にイラン代表監督経験あるヴァルデイル・バドゥ・ビエイラを招聘、1月にクラブを株式会社化し、AC長野パルセイロに名称を変更した。

 

 プロ化1年目の目玉として、要田に白羽の矢を立てたのだ。

 

 環境面では申し分なかった。将来のJリーグ入りを睨んで、千曲川リバーフロントスポーツガーデンの天然芝グラウンドが練習場所として充てられることになっていた。

 

 問題はクラブが北信越フットボールリーグ、つまり地域リーグに所属していることだった。

 

 J1から数えて4部リーグに相当。要田はまだ29歳。昨年までJ1のトップチームであるジェフユナイテッド千葉でプレーしていたという誇りもあった。条件を下げれば、J2、あるいはJFLのクラブに入れるのではないかという思いが頭の片隅にあった。

 

 要田の代理人である辰己直祐氏はこう言う。

「大切なのはクラブがどれだけ価値を認めてくれるか。J2のクラブに安い給料で契約を結んでもらう手もあった。若い選手ならば、アルバイトをしながら夢を見るというのもありかもしれない。しかし、要田には家族もいた。サッカーだけで生活できる給料をもらい、周囲からリスペクトを受けてプレーした方がいいのではないかという話をしました」

 

 要田は、長野パルセイロと契約を結んだ。背番号11、望んだ番号が与えられた。

 

 2007年シーズン、北信越1部リーグで松本山雅FCに続く2位に終わり、全国地域サッカーリーグ決勝大会に進出できなかった。翌2008年シーズンは優勝、しかし、地域リーグ決勝大会1次ラウンドで、ホンダロック、バンデイオンセ加古川の後塵を拝し3位で終わった。

 

 オシムの薫陶を受けたのは財産

 

 2009年シーズン、要田は左膝前十字靱帯を切断、出場機会がなかった。北信越1部リーグで2位、このシーズンを最後にバドゥがクラブを去っている。そして2010年シーズン、北信越1部リーグで優勝、決勝大会で2位に入りJFL昇格を決めた。この年、要田はスパイクを脱いだ。

 

 J1通算32試合出場5得点(カップ戦、天皇杯も含む)、J2通算12試合出場2得点というのが彼の残した記録である。数字だけみれば、特筆すべきものは何もない。ただ、約16シーズン続けたこと、中でもジェフユナイテッド千葉時代にイビチャ・オシムの薫陶を受けたことは何よりの財産だった。

 

 現役引退後、要田は古巣のヴィッセル神戸の下部組織のコーチを務めた。

「今の子って、世界中の凄い映像を見ているから、みんな上手いんです。でも試合でそれができるかというとまた違う」

 

 トップチームの若い選手を横目で見ながら危うさを感じることもあった。

「Jに入ったらそこそこのお金がもらえて、シューズやウエアも提供される。そこで勘違いしてしまう子がいるのが本当に勿体ない」

 

 そう考えるのは、自らの経験がある。

「ぼくの同期で高校サッカーで注目されてJリーグに入った選手はたくさんいました。その中には1年で首を切られた選手もいた。たぶん練習しなくなったんでしょうね」

 

 そんな中、ぼくはあんなに長くサッカーを続けられる選手じゃなかった、人との出会いに助けられましたと笑う。

 

 彼がかろうじて生き残ったのは、陽の当たらないところでも、さぼらず腐らなかったことだろう。それがオシムという傑出した指導者との出会いに繋がった。

 

 現在、要田はこれまた古巣である横浜FCの女子チーム、なでしこリーグ1部所属、ニッパツ横浜FCシーガルズの監督を務めている。女子のサッカーは男子と比べると条件面で恵まれない。それでも必死に努力する彼女たちの力になりたいと要田は考えている。さぼらず腐らない人間は、オシムのような人が必ず見ていてくれると信じているのだ。

 

(この項おわり)

 

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。最新刊は「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。

2019年より鳥取大学医学部附属病院広報誌「カニジル」編集長を務める。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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