カープ球団史に残る球団の存続危機といえば、設立2年目のシーズンを控え、金策に明け暮れていた日々のことであろう。カープはその危機を、初代監督・石本秀一の考案した「後援会構想」で乗り越えていくが、第二の試練が襲い掛かる。それは、セントラル・リーグ連盟からの“カープ潰し”という圧力だった。

 

<セントラルの連盟でもカープ解散を見越し、六球団で公式戦のスケジュールを作っていた>(「読売新聞」カープ十年史『球』第59回)

 

 セ・リーグ7球団のうち、カープのみ開幕カードが組まれないという仕打ちを受ける中で、連盟と話し合いを持つことで試練を乗り切っていく。この時期のカープは試練を奇跡的に乗り越えれば、再び試練に追い込まれ、さらに復活を遂げるという、まさに禍福は糾える縄の如しであった。

 

野球少年の200円

 こうした中でもファンである県民市民は、カープへの支援を惜しまなかった。当時は原爆からの復興期とあって貧しい暮らしであった上、その日食べるのが精一杯だった。そして、ある時から広島総合球場の入口に酒樽が置かれ、さまざまなドラマが生まれた。

 

<選手たちが練習していた県営球場の入口には大きな四斗ダルが据えられ、浄財を投げ込む仕掛けになっていた>(「読売新聞」カープ十年史『球』第59回)

 この酒樽がその後のカープの危機を救い、経営状態を軌道に乗せる一助になるのである。なけなしの小遣いだろうと、誰もが惜しみなく酒樽におカネを投げ込んだ。

 

 たる募金をめぐるドラマといえば、昭和26年、段原小学校3年の迫谷富三君(注)の話が有名である。野球大好き少年だった彼は、学校では日が暮れるまで野球に熱中し、家に帰れば、家業である迫谷建具有限会社の若い衆らとキャッチボールを楽しんだ。また、家業の建具屋の垂木作りを手伝い貯金していた。

 

「(板が)寸2という厚みで、幅が5メートル40センチぐらい。これを細かく切って、一本の垂木をつくるんです。また、障子を組立てる時に穴が必要になるのですが、穴あけ機を使って、その手伝いをしました」。迫谷は、そう振り返る。「これで5円とか10円とかもらえる。(今でいう)バイトいうかね……」

 

 当時、カープの窮状は連日、新聞紙上を賑わしていた。少年時代の迫谷が聞いた話はこうだ。「石本さんが“網戸と扉を作ってくれんか”言うて来られたようで、親父も“石本さんどうしよってん”という話になった。それで、“カープの監督をやりよるんじゃが、もう倒産寸前で解散せにゃあいけないところまできておる”と。“後援会もなく、選手も無報酬となれば職業野球はやっていかれん”と。仮に野球をやっても、それほど入場券がたくさん売れる訳じゃないというようなことだった」。そんな大人の会話を、迫谷少年は入り込んで聞いていた。

 

 迫谷少年には夢があった。「自分はどんどん野球がうまくなって、カープに入るんじゃ」。しかし、そのカープが潰れてしまっては、プロ野球選手どころか、カープに入れない。そう気付いた瞬間、迫谷少年はある行動に出る。

「カントク、これ使うてください」。小銭ばかり貯めた200円を石本に差し出した。石本は戸惑いながらも「ありがとう、ありがとう」と礼を繰り返した。

 

 200円という金額は、後に発足する後援会の年会費と同額である。果たして、この後援会づくりのヒントになったかどうかは不明だが、偶然の一致であれ後援会費は、子どもでも出せる金額という発想で設定されたのだろう。

 迫谷は、こうも語っている。

「こうしたことをきっかけに後援会発足を考えると言うんで、(石本さんは)中国新聞に走られた。実は、小学校の子どもからの資金ということで、中国新聞は大々的に書いたんよ。それが、たる募金のきっかけ」。子どもでも、貯金箱をはたいてでも、カープ存続に賭けたのだ。

 

「アイムハングリー」

(『広島カープ物語』トーク出版・作画momonga)

 この昭和26年のシーズン開幕から、広島総合球場においては、県民市民らによる寄付金の贈呈式が見られるようになった。試合前、たる募金で使う酒樽を前に、目録を手渡すのである。

 

 シーズン前、広島総合球場で行われる試合は大入り満員であった。そこにはファンたちの、なんとかカープ球団を救わねばならないとの思いと、今シーズンこそ頑張ってほしいという思いが混在していた。

 

 この時期、ある9歳の少年がカープ戦見たさに加え、お駄賃代わりに買ってもらえるアイスやパンが嬉しくて、カープ戦の手伝いをしていた。名前は森山修次といった。以下は、森山の証言を元に話を進める。

 

 森山の父・信一は、現在でいう広島日赤病院(広島市中区)の電車道路を隔てた向かい側で、布団店を営んでいた。森山はその四男で7人兄妹の上から五番目だった。爆心地から約1.5キロにあったことから、自宅は壊滅状態になった。だが、幸い県北部に疎開していたことや、当時、信一も東洋工業に徴用工として仕えていたため、一命は取りとめた。

 

「近所に病院があったことから、その病院で使っていた注射器などが焼けただれていた場所を手掛かりに自宅の位置を特定して、すぐに布団店を立ち上げた。ただ、布団店と言っても布団を売っている訳じゃないんです。どこからか、布団の打綿機を仕入れてきて、布団の打ち直しをはじめたんです。綿をちぎっては機械に入れ、それが板状に成形されて出てきたのを覚えています」

 

 原爆投下後の間もない時期、新調された布団など買えるはずもなかったろう。センベイ布団も多かった時代、この打ち直しは軌道に乗り、森山家の復興は順調だった。

 

 こんなこともあった。「目の前が日赤病院とあって、再々、ジープが出入りしたのを覚えています」。岩国基地からジープがやってきて止まり、米兵が昼食を食べていると、子どもたちが集まってきては、「アイムハングリー」「ギブミーチョコレート」と叫んでいた。

「米兵はサンドイッチの中味を食べた後のものや、ビーフの入った缶を、子どもたちに投げるんです。これにみんなが、我先にとたかるので米兵も面白いように投げていましたね」

 こうなると缶の底や周りに残った肉やその汁が味わえるとあって、缶を拾った後、水道の蛇口をひねって水を入れてすする。すると、どうなるか。「缶の切り跡で、口の周りが切れて痛いのに、それでも我先にビーフの空き缶にたかっていました」

 

 森山は近所の電気店(現・岡崎電機商会)の倅と仲良かったので、カープ戦の準備によく一緒に出掛けていた。朝の8時頃から手押しのリアカーに大型のアンプとスピーカーを乗せ、ケーブルやタップなどの音響設備一式を積み込み、広島市内中心街から西方面、観音地区にある広島総合球場を目指した。広島のデルタを形成している広島市内には、川も多かったことから、多くの橋が架かっていた。リアカーが橋にさしかかると登り傾斜になるため、リアカーを後ろから押す手に力を込めた。橋の中央あたりを過ぎると、逆にリアカーに乗り込んで加重をかけ、下りの走りを加速したという。

 

教科書掲載で決心

 そうこうして広島総合球場に着くと、“店員さん”は仕事をしなければならない。重いスピーカーをバックネット上部に取り付けるため、ハシゴに登る。この時、「おい、ケーブル」と言われれば素早く渡し、店員をうまく手助けした。

 

(写真:森山修次氏)

 ある日、試合を見ていると「おい、これを石本監督に渡してくれんじゃろうか」と大人から言われ、目録が手渡された。あまり理由は分からなかったものの、森山は贈呈役を務めたという。この時、新聞社からパチパチと写真を撮られた。

<写真は、当時の中国新聞夕刊に『微笑ましい資金カンパ』の見出しとともに掲載された>(「中国新聞」令和元年12月30日)

 この写真は、長年、個人が特定されることなく、時が流れていた。

 広島の高校を卒業した森山は、カメラメーカーのオリンパスに入社後、カメラやレントゲン関連商品の営業で全国を転勤し、現在は愛媛県松山市に家を構えている。

 

 写真と記事は68年の時を超え、カープファンを含めた球団関係者や中国新聞社などのマスコミ関係者を納得させるものとなった。長年、少年の名前が特定できないとされていた中で、2019年の年末、<たる募金の『写真の少年』分かった><松山の森山さん 監督に目録>(同前)という見出しで、広く世に知られることになった。

 この掲載の立役者となったのが、森山の甥っ子で奈良市在住の森山隆氏とされるが、彼にはとまどいとためらいの日々があったという。

「長年、身内との会話で、必ずといっていいほど出てくる“修次おじちゃんの写真”の話。年賀状に書かれることもあった」

 

(写真:森山隆氏)

 この時の隆の思いはこうだ。

「このまま埋もれてしまう話にしたくない」。そんな中、あるニュースが飛び込んできた。カープが3連覇を決めた翌年の19年春のことだ。

<カープが小学校の道徳教科書に登場!掲載理由は人気のすごさ>(「デイリースポーツオンライン」平成31年4月22日)という見出しの記事である。

 

 内容はこうだ。

<光文書院(東京都)が発行する5年生向け『小学道徳 ゆたかな心』の中で、「ふるさとのほこり 広島カープ」と題してたる募金にまつわるエピソードを4ページにわたって紹介している>(同前)

 

 この教科書には、修次の写真が掲載されていたのである。衝撃と興奮を抑えられなかった隆は「もう、知らせるようにしよう」と。こうして、カープ資金カンパの贈呈役だった修次の話を手紙にしたため、カープ球団へ郵送したのだ。

 

 たる募金にまつわる伝説は、現代につながるものがあり、まだベールに包まれているものも少なくない。当時は試合がある日なら、「いつでも誰からでも可能な金額だけ」投げ銭のごとく資金カンパができるシステムであり、親会社のないカープの球団経営に浄財が注がれ続けることになった。

 

 さあ、話を昭和26年のシーズンに戻そう。開幕戦の相手は、戦前の職業野球時代に石本が率いた大阪タイガースである。球界を知り尽くした名将がいかなる采配を振るったのか……。乞うご期待。

 

(注)「中国新聞」(昭和26年3月23日)には、<広島市段原小学校三年生迫谷富三君は二十二日郵便貯金二百円を引き出して先生を通じ石本監督に手渡した>と掲載され、話題となった。なお迫谷はその後、名門・広陵高に進学し、野球部に入部。高校2年の春、3年の春、夏には甲子園にも出場し、エースとして奮闘した。

 

【取材協力】

迫谷富三

森山修次

森山隆

岡崎洋司

斎藤亮佑(NHK)

 

【参考文献】

「中国新聞」(昭和26年3月23日、令和元年12月30日)、「カープ十年史『球』第59回」(読売新聞)、デイリースポーツオンライン(平成31年4月22日)「カープが小学校の道徳教科書に登場!掲載理由は人気のすごさ」https://www.daily.co.jp/baseball/carp/2019/04/22/0012265574.shtml(令和4年8月15日)


西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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