1990年代から2000年代にかけて、日本プロ野球には3人の「天才打者」がいた。イチロー(マリナーズ)と松井秀喜(ヤンキース)、そして1日に球界史上36人目の2000本安打を達成した前田智徳(広島)だ。

 3人の中でもとりわけ、前田のセンスはズバ抜けていた。辛口で鳴る3冠王3度の落合博満(中日監督)も前田に限っては「前田の打撃はプロ野球の歴史の中で、ずっと理想とされてきたフォームともいえる。みんながお手本にしていい、生きた教材なんだ」とベタぼめしている。

 プロ入り3年目で打率3割8厘をマークした。打撃ベスト10の5位。翌年は3割1分7厘(4位)、翌々年は3割2分1厘(2位)。首位打者は、もう目の前だった。加えて俊足、強肩。相手投手のウイニング・ショットを狙い打つような気の強さも併せ持っていた。

 ところが好事魔多し――。1995年5月、神宮球場でのヤクルト戦で前田は右アキレス腱を断裂した。「前田智徳というバッターはもう死にました」。見舞った私に前田は表情を消して、ポツリとつぶやいた。重い言葉だった。

 それ以来、前田は満身創痍の状態でのプレーを余儀なくされ続けた。傷めた右足をかばって、左足まで傷めてしまった。下半身が安定しないため、ゴンドラのように揺れながら打席に立っていたこともある。

 メジャーリーグでプレーする、かつてのライバル、イチローや松井の雄姿を見て、前田は何を考えていたのか。心中、穏やかではなかったことは間違いあるまい。

 しかし、日本のプロ野球ファン、とりわけ広島ファンは故障が遠因となって日本最高の打撃技術を長きにわたって目のあたりにすることができた。
不幸なかたちではあったが、野球の“無形文化財”は最後まで国内にとどまった。今にして思えば、それが「天才」の運命だったのかもしれない。

<この原稿は07年9月15日号『週刊ダイヤモンド』に掲載されたものです>

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