スポーツの世界には「バニスター効果」という言葉がある。概説は、こうだ。陸上の1マイル競走(約1600メートル)は1923年4月にフィンランドのパーヴォ・ヌルミが4分10秒3で走って以来、長きにわたって破られることがなかった。「ヌルミの記録は、いつか破られるかもしれないが、4分を切ることは医学的に考えられない」。それが当時の医師たちの共通見解だった。

 

 ところが、である。54年5月、英オックスフォード大学など6校による1マイル競走で、英国のロジャー・バニスターが3分59秒4という世界記録をマークし、人類史上初めて4分を切ってみせたのだ。

 

 奇跡は連鎖する。バニスターの記録は、その7週間後、オーストラリアのジョン・ランディによって塗り替えられる。3分57秒9。バニスターの記録を大幅に縮めてみせた。そこからの1年間で、なんと23人ものランナーが3分台になだれ込んだのだ。

 

 バイアスとは恐ろしい。「3分台は無理」どころか、「4分を切れば死ぬ」とささやかれ、多くのアスリートが、それを信じ込んでいた。医学を専攻していたバニスターも例外ではなかった。だから、彼はゴール直後、「私は死んでいなかった」と大真面目に語ったのである。

 

 無理、不可能、非現実的……。スポーツの世界は思い込みに支配されたネガティブな言葉であふれている。それを、ひとつひとつオセロゲームのコマのように引っ繰り返し、自らの陣地を拡大しているのがメジャーリーガーの大谷翔平である。

 

 彼が海を渡る時、ある“世界記録”を保持していた球界のレジェンドが、「彼のためを思って言うんだけど」と前置きして、私にこう語った。「すごい才能だと思うよ。メジャーでも二刀流をやるというんだから。でも、このまま続けていたら、彼は規定投球回数にも規定打席数にも到達しない。記録を残さない選手は、いずれ忘れ去られるんだ。どんな良い選手であっても…」

 

 17日(現地時間)のマリナーズ戦で7回無失点。13勝目(8敗)をあげた大谷は、規定投球回到達まで、あと14イニングとした。予定されている先発は残り3試合。アクシデントでもない限りは“当確”だろう。規定打席には既に達している。ダブルでのクリアとなればMLB史上初。バニスターの例にならえば、いずれ大谷の後を追う者が現れるかもしれない。しかし、それは近い将来の話ではない。

 

 レギュラーシーズンも終わりに近づき、アーロン・ジャッジとのMVP争いに注目が集まっている。ジャッジはスーパーだが、そもそも大谷には価値を測る物差しが存在しない。後者の希少性、独創性に軍配を上げたい。

 

<この原稿は22年9月21日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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