左足を振れば、どよめきが起こる。

 44歳になってもそれは変わらない。ニッパツ三ツ沢球技場のスタンドからは何度も感嘆が漏れた。

 

 10月16日、ファジアーノ岡山が敗れたことで試合前にJ1昇格を決めた横浜FCはホームにツエーゲン金沢をホームに迎え、2-3の後半28分に中村俊輔がピッチに送り出された。右足首のケガに伴って離脱が続き、5月21日のアルビレックス新潟戦以来、5カ月ぶりの出場となった。

 

 ボランチに入ってクサビの縦パスを送ってチャンスを捻出すれば、今度はスペースにパスを出してチームを前に向かわせる。約29mの距離から惜しい直接FKも、左足のシュートもあった。最後は珍しいヘディングシュートのおまけ付き。チームに同点ゴールは生まれなかったものの、迫力ある攻撃を促した中村の陣頭指揮はさすがであった。記者席から眺めてみても「まだやれそうだな」と感想を持つことができた。

 

 しかし翌日、一部のスポーツ紙で現役引退が報じられ、さらにその翌日には横浜FCからも正式に発表された。今シーズン限りで26年間のプロキャリアに幕を下ろすことになった。

 

 金沢戦は“ラスト三ツ沢”になった。

 言うまでもなく、彼にとって慣れ親しんだ場所だ。

 

 小学生のころ父親に連れられて三ツ沢のコンクリート席に座り、JFL(日本サッカーリーグ)の黄金カード、日産自動車―読売クラブ戦を見た光景を懐かしそうに語ってくれたことがあった。

 

「読売はラモスさんたちがいてみんなテクニックがあった。自分のプレースタイルから考えると読売のほうなんだけど、でも日産のカラーが好きだったね。みんな紳士っぽく見えて、団結心があってね。自分勝手なプレーがなくて、全員で勝利を目指していく感じに惹かれていった。小学校の中学年ぐらいだったけど、あれが自分の原点なのかなとも思う」

 

 マリノスのジュニアユースに入って練習に明け暮れる日々のなか、Jリーグが開幕すると三ツ沢でボールボーイを務めた。ハーフタイムに入ると木村に呼ばれて、ボール回しをしたこともある。スタンドからピッチ横から、背番10を背負う木村和司を眺めた。

 

 最高のテクニックで魅せる。そのワンプレーでチームを勝利に導く--。そのマインドこそが中村の原点であったのかもしれない。

 

 横浜F・マリノスからイタリア1部レッジーナ、スコットランド1部セルティック、スペイン1部エスパニョールと渡り歩き、ファンタジスタとして評価を高めた。日本代表では長らく10番を背負い、98試合に出場。10年に横浜F・マリノスに復帰して再び活躍の場をJリーグに移し、13年には2度目となるJリーグMVPに輝いている。

 

 F・マリノスを離れてからはジュビロ磐田、横浜FCでプレーし、40歳を過ぎてもピッチで輝きを放ち続けてきた。そして何よりもプレーでサポーターを喜ばせ、ファンの目を楽しませてきた。

 

 彼はこんなことも語っていた。

「ゲームをつくりつつ、ワンプレーでゲームを決めてしまう役割を、最後まで追求していきたいというのはある。子供のころからそうだけど、うまいなって言われたいし、“あの選手が逆のチームにいたら、逆のチームが勝ってたな”ってそう思われたい。それが一番の褒め言葉なのかな。お金を払ってでも見に行きたいって思ってもらえるようなプレーをね。それを追求していって、いつか(現役を)終われればいいんじゃないかなって思う」

 

 ずっと追求の日々を送ってきた。だからこそ“最後の三ツ沢”でも中村のプレーとどよめきはセットであった。最終節(23日)アウェーでのロアッソ熊本戦でも、プレーを追求していく姿勢は同じである。

 

 引退後は指導者を目指すという。

 日本を代表するファンタジスタのことだ。魅せて、チームを勝たせる後継者を、きっと育て上げるに違いない。


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