楽山孝志は1980年8月、富山県の北東部、魚津市で生まれた。県庁所在地のある富山市からは車で30分ほどの場所にある。富山湾に面した平野部から2000メートル級の立山連峰まで一気に標高が上がる独特の地形をしており、清麗な水と海産物に恵まれた、人口約4万人の小さな街である。

 

 吉島スポーツ少年団で本格的にサッカーを始めたのは小学校1年生のときだった。

 

「3つ上の兄が少年団に入るのに、くっついて行ったんです。本当は2年生からしか入れなかったんですが、無理言って入れてもらったような感じです。練習は週に2回やって(週末に練習)試合という感じ。それ以外は兄や兄の友だちとサッカーしたり、一緒に遊んでいましたね。3つ上の人たちと常にいたのが良かったのかもしれません」

 

 負けず嫌いだから、何をしても常に彼らに勝とうと思っていたんですよ、と笑った。

 

 日本海側の富山県は豪雪地帯に入ることもあるだろう、体育館で行うサロンフットボールが盛んだった。サロンフットボールは主に南米大陸で行われていた、現在のフットサルの原型である。通常のサッカーよりも小さなコートとボールを使用する。

 

「当時使っていたのは、3号球よりも小さいボール。雪国なんで室内トレーニングが多くなるんです。狭いコートで練習するから、必然的に選手同士の距離が狭くなる。ボールを触る回数も増える」

 

 止める、蹴るというサッカーに不可欠な技術をサロンフットボールで身につけることができたのだ。小学校6年生のとき、サロンフットボールの全国大会で優勝したこともあった。

 

「ただ逆に言うと、大きなサイズのコートで練習している太平洋側の選手と比べると攻守にわたってのスペースの認知とフィジカルの差が出てきますよね」

 

 6年生のとき、千葉の検見川総合運動場で行われた大会に参加した。全国から強豪チームが集まっており、県外のチームに惨敗した。

 

「正確なスコアは覚えていないんですが、結構やられた記憶があります」

 

 楽山の小学生時代は、プロリーグ胎動の時期だった。

 

 彼が小学3年生だった89年6月に日本サッカー協会内にプロリーグ検討委員会が立ち上がっている。翌90年7月末、ブラジルのサントスFCに所属していた三浦知良が帰国、読売クラブに加入している。

 

 楽山が世界のサッカーを近くで感じたのはこの90年秋のことだった。

 

 少年団の仲間たちと国立競技場で行われたトヨタカップ、ACミラン対オリンピア戦を観に行ったのだ。

 

 オランダ代表のルート・グーリット、マルコ・ファン・バステン、フランク・ライカールト、イタリア代表のフランコ・バレージらを擁したACミランは、前年もトヨタカップを制しており、成熟期に入っていた。

 

「国立競技場の雰囲気を味わったとき、ぼんやりとぼくもプロ選手になってあのピッチに立ちたいと思いました」

 

 見て真似て盗む

 

 翌年、富山で行われた日本リーグの試合を父親に連れられて観に行った。この年、日本リーグ2部だった住友金属サッカー部にアルトゥール・アントゥーネス・コインブラことジーコが加入していた。JSLカップ2回戦、住友金属対富士通戦が富山県の岩瀬スポーツ公園で行われたのだ。

 

「うちの親父は“一流”を見せることを大切にしていて、ジーコを観に行こうって」

 

 ところがチケットが手に入らず、競技場の外からピッチを覗き込むことになった。

 

 ちなみに観客席には楽山より3つ年上の中学生がいた。数年後、彼はジーコのもとでサッカーをすることになる。元日本代表のフォワード、柳沢敦である。

 

 中学校では、この柳沢も所属したクラブチーム、FCひがしでサッカーを続けた。楽山はFCひがしの特徴は「教えないことだ」と言う。

 

「基本技術を大切にして、とにかくゲームが多い。少人数のゲームやタッチ制限をかけたゲームをひたすらやる感じです。(FCひがしの指導者だった)成瀬(昌朗)先生が大事にしていたことは、うまい選手の技術を見て、真似をして自分で盗むということ。FCひがしでは、トレーニング前に映像を見せるんです。セリエAの試合が多かったですね。それを見てイメージを持ってからトレーニングする」

 

 言葉で教えられるのはごく一部、映像の中にはもっと多くの要素が入っている。それを自分たちで見つけることが大切である。この手法は理にかなっていると後に楽山は考えるようになった。

 

「小学校のときは身体が小さくて、前から数えた方が早いぐらいでした。中学校1年生の後半ぐらいか2年生ぐらいから急にぐっと、戸惑うほど(身長が)伸びたんです。ポジションも最初はスイーパーだったんですが、だんだん前の方に上がって行きましたね」

 

 中学3年生のとき、FCひがしは日本クラブユースサッカー選手権(15歳以下)に出場した。その大会では清水エスパルス・ジュニアユースが優勝を収め、そのメンバーは楽山が小学生6年校のとき検見川で対戦した選手たちがいることに気がついた。

 

 後に日本代表に選ばれる市川大祐、平松康平、和田雄三、森勇介たちである。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。最新刊は「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。

2019年より鳥取大学医学部附属病院広報誌「カニジル」編集長を務める。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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