突然の訃報だった。11日未明、東京・世田谷区の住宅で火災が発生し、この家に住む元プロ野球選手の村田兆治氏が亡くなった。72歳だった。現役時代は“マサカリ投法”と呼ばれたダイナミックなフォームから繰り出す威力のあるストレートと落差の大きいフォークボールを武器に、通算213勝を挙げた。当HP編集長・二宮清純は現役時代から取材を通じて親交があり、折に触れて話をうかがってきた。故人のご冥福をお祈りするとともに、在りし日の雄姿を偲びながら8年前の対談記事を前編後編の2回に分け、紹介する。

 

(文/杉浦泰介、写真/金澤智康)

 

[虎四ミーティング~限界への挑戦記~]

村田兆治(野球解説者)<後編>「苦境を乗り越え、1073日ぶりの勝利」

 

(この原稿は2014年6月27日に『現代ビジネス』掲載された記事を再構成したものです)

 

二宮清純: フランク・ジョーブ博士のもと、右ヒジの手術を受けたのが1983年。その翌年には二軍の試合に投げています。二軍とはいえ、実戦のマウンドに立つことができたわけですから、感慨深いものがあったのでは?

村田兆治: 私も試合で投げられる喜びがあるかと思ったのですが、実際はそうでもなかったですね。例えば、ポーンと大きな打球をレフトに打たれたとするでしょう。一応、アウトはアウトなのですが、心の中では「あぁ、今のは一軍だったらホームランになっていたなぁ……」と、思わずため息が出ました。

 

二宮: 右ヒジの調子はいかがでしたか?

村田: ヒジよりも、肩の方が思わしくなかったですね。前年は手術のために1イニングも投げていなかったので、わずか1回投げただけで、肩が元に戻るのに2週間もの時間を要したんです。

 

二宮: 手術前は、どのくらいの日数があれば肩の調子は戻っていたのでしょうか?

村田: 完投したとしても、2、3日で、また元の状態に戻っていました。それが普通だと思っていましたから、肩の回復の遅さには多少なりともショックを受けました。でも、一度カムバックすると決めた以上、簡単に弱音を吐くわけにはいきませんからね。その後は遠投に始まり、下半身強化、柔軟体操と徹底して身体をいじめ抜きました。

 

二宮: その努力の甲斐あって、その年の夏には一軍のマウンドに復帰されましたね。

村田: 忘れもしません。84年8月12日、札幌・円山球場での西武戦、私は818日ぶりに一軍のマウンドに立ちました。稲尾和久監督から「準備しとけよ!」と言われたのは、7回でした。11対1と大量リードをしていて、ついに9回に「行くぞ!」と声がかかった。この時ばかりは体中が震えましたね。長い野球人生でも、武者震いを経験したのは、この時が初めてでした。

 

二宮: 2年ぶりの一軍のマウンド。自分の思うようなピッチングはできましたか?

村田: だいたいイメージ通りでしたね。投げたボールは全部で9球。ストレートが6球、フォークボールが3球でした。ヒジの痛みも全くありませんでした。

 

引退を決意させた男の美学

 

二宮: 翌85年には、17勝を挙げました。しかも、復帰後初勝利をいきなり完投で飾っている。これには驚きました。

村田: 開幕2戦目の西武戦でした。実はこの試合、100球を超えた時に、稲尾さんがマウンドに来て「兆治、オマエは長い間、辛抱してきた。だから勝ちたいという気持ちはよくわかる。でも、もういいだろう」と言われたんです。でも、私は完投する気でいましたから、稲尾さんからボールを取って、「オレが投げる。監督、この試合をオレにくれ」と言ったんです。結局、155球を投げ切って、1073日ぶりの勝ち星を挙げた。本当の意味でカムバックしたな、と思いましたね。

 

二宮: その後は日曜日の先発が村田さんの指定席となり、“サンデー兆治”と言われましたね。多くのファンが村田さん目当てに集まりました。

村田: 1週間に1回、日曜日だけ先発するということは、中6日あるということ。随分と間隔があるように思われるかもしれませんが、当時の私としてはもう精一杯でした。

 

二宮: それでも復帰後、7年間で59勝というのはすごいことです。

村田: 確かにヒジを手術してから挙げた59の勝ち星は、それまでに挙げた156の勝ち星よりも重かったですね。

 

二宮: 現役最後のシーズンとなった90年も10勝を挙げている。まだ、やれたのでは?なぜ、引退を決意したのでしょうか。

村田: 周りからも不思議がられましたよ。なかには「あれだけ投げられるのに引退するなんて、ちょっとえぇかっこすぎやしないか」なんて言う人もいた。でも、これは男の美学、自分なりのエースへのこだわりがそうさせたんです。

 

二宮: 最もこだわっていたものとは?

村田: 私にとって先発投手というのは、完投することなんです。今では6、7回まで投げれば先発の役割を果たした、となりますが、私にとっては先発完投がすべてでした。90年シーズンは26試合に投げて10勝を挙げたものの、完投したのはわずか4試合。これではエースとしての役割を果たしているとは言えない。そう思って、引退を決意しました。

 

フォークボール習得のワケ

 

二宮: ところで村田さんと言えば、伝家の宝刀、フォークボールです。フォークを習得しようとしたきっかけは何だったのでしょう?

村田: プロに入った時、私には真っ直ぐ以外に武器がなかったんです。変化球は何ひとつ投げられなかった。高校時代に見よう見まねで投げてはいたんですよ。でも、実戦レベルではなかった。例えばカーブのサインがキャッチャーから出て、仕方なくカーブを投げても全部ボールになってしまうんです。逆に、「投げられないのをわかっていて、なんでそんなサインを出すんだ!」と腹立たしく思ったこともありましたね。ただ、もともと村山実さん(故人)に憧れていたこともあって、フォークには興味がありました。

 

二宮: もともと指は柔らかかったんですか?

村田: いやいや、これは練習すれば誰でも開くようになるんですよ。その代わり、痛いですよ(笑)。私はベッドに入ってからも、ボールを横からはさんだり、上からはさんだりして、ひとりで投げ方を研究しました。テニスボールなんかも、よくはさみましたね。とにかく、周りにはさめるものがあったら、何でもはさんでいました。

 

二宮: 村田さんのフォークは、本当に上からストンと落ちましたよね。まるでナイアガラの滝のようでした。

村田: 本当のフォークというのは、コースを狙わないんです。とにかく真下に落ちる。これが正道です。しかし晩年、力が衰えてからはシュート気味に5-5で握ったり、6-4で握ったり、スライダー気味に落としたい時は、7-3で握りました。少し握りを変えるだけで、随分と落ち方が違うものなんです。

 

最多暴投は勝負師の勲章

 

二宮: 実は村田さんは、通算暴投数が日本のプロ野球で最多なんですよね。これはやはりフォークを武器とするピッチャーの宿命でしょうか。

村田: フォークを多く投げている、何よりの証でしょうね。私は、それだけ恐怖心を持たずにフォークを投げていたと自負しているんです。最多暴投は私の誇りでもあります。それだけ暴投が多いのに、一度もサヨナラ負けはないんですよ。

 

二宮: 恥ではなく、誇りだと。そこに村田さんの生きざまを見る思いがします。

村田: ただ、紙一重ですよね。例えば9回2死一塁で2ストライクまで取った後に、ワンバウンドのフォークでランナーを二塁に進ませた。さらにまた暴投で三塁に進ませた。それでもフォークを投げるわけですよ。もう天国か地獄かの世界。それで打たれたら間違いなく「オマエ、ひとりで野球やってるのか!?」と言われますからね。ただ、ランナー三塁でフルカウントだったら、バッター心理からすると「フォークは来ないな」と真っ直ぐを待つ。そこでフォークを投げれば、「村田は真っ直ぐとは限らない」となって、迷いが生じるわけです。そうなれば、ピッチャーが有利になりますからね。だから勝負の場面で怖れてはいけないんです。

 

二宮: 「サヨナラ負けをしたらどうしよう」と弱腰になってはダメだと。

村田: そうです。そのために、私は練習の時にワンバウンドのフォークで暴投になったら、自分の顔をピシャンと叩いて気合いを入れていました。そうすると、受けるキャッチャーも真剣になるんです。

 

二宮: 練習の時から真剣勝負をやっていたから、本番の時に恐れず腕が振れると。

村田: 単なる慣れあいの練習は、本番では役に立ちません。

 

(おわり)