突然の訃報だった。11日未明、東京・世田谷区の住宅で火災が発生し、この家に住む元プロ野球選手の村田兆治氏が亡くなった。72歳だった。現役時代は“マサカリ投法”と呼ばれたダイナミックなフォームから繰り出す威力のあるストレートと落差の大きいフォークボールを武器に、通算213勝を挙げた。当HP編集長・二宮清純は現役時代から取材を通じて親交があり、折に触れて話をうかがってきた。故人のご冥福をお祈りするとともに、在りし日の雄姿を偲びながら8年前の対談記事を前編後編の2回に分け、紹介する。

 

(文/杉浦泰介、写真/金澤智康)

 

[虎四ミーティング~限界への挑戦記~]

村田兆治(野球解説者)<前編>「絶望感、プライド、諦め……悩み続けた1年間」

 

(この原稿は2014年6月13日に『現代ビジネス』に掲載された記事を再構成したものです)

 

二宮清純: 村田さんと言えば、やはり右ヒジ手術からの復活劇が有名です。ダイナミックなフォーム“マサカリ投法”で一世を風靡し、ロッテのエースとして活躍していた最中の1982年、右ヒジに激痛に襲われたのが始まりでした。
村田兆治: いや、もうそれまでに経験したことのない痛みでした。

 

二宮: 忍耐強い村田さんが音を上げるくらいですから、相当な痛みだったことが想像できます。
村田: 投げようとすると、脳天に突き刺さるというか、首の後ろにまでズーンと痛みが走るんです。そうすると、腰がガクンと落ちて、もう立ち上がれない。まるでノックアウト負けをくらったボクサーのような感じですよ。

 

二宮: 翌年には米国で、靭帯が断裂したヒジに正常な腱を移植する“トミー・ジョン手術”を受けました。渡米するきっかけは何だったのでしょうか?
村田: 日本のどこの病院に行っても、「異常なし」と言われたんです。こんなに痛いのに、正常なわけがないんですけど、当時の日本の医学では、原因を追究することができなかったんでしょうね。最後に行ったのが知人に紹介された順天堂医院でした。私としては、早く引退宣告を受けたかったんです。

 

二宮: 楽になりたかったと?
村田: そうですね。とにかくエースになりたくて、それまでがむしゃらにやってきていましたからね。今では“マサカリ投法”と呼ばれていますけど、当時は「何だ、あのフォームは」と散々な言われ方をされていたんです。それでも分析、研究をし、「なにくそ」と思いながら根性むき出しにしてやってきた。ヒジを痛めた時は33歳でしたし、当時の野球選手の平均寿命くらいでしたから、もうそろそろいいかなと思っていたんです。

 

無の境地を見出した滝修行

 

二宮: 順天堂医院の医師の診断結果は?
村田: 「私は腱移植をやったことがない。正直言って、手術が成功するかどうかはわかりません。スポーツ医学は米国の方が進んでますから」と言われたんです。それで当時チームメイトだったレロン・リーなど、外国人選手の何人かに医学事情を聞いたりして、いろいろと情報を集めた結果、ロサンゼルス・ドジャースのチームドクターを当時務めていたフランク・ジョーブ博士のことを知ったんです。

 

二宮: 当時、日本ではヒジにメスを入れるのはタブー視されていました。最初は抵抗もあったのでは?
村田: 幸い、その4年前にロッテにいた三井雅春が“ねずみ”(ヒジの軟骨)を削る手術をジョーブ博士から受けていたんです。ですから、特に抵抗感も不安もありませんでした。それよりも、もうやれることはすべてやっていたので、人事を尽くして天命を待つという心境でした。

 

二宮: 右ヒジに痛みが生じて渡米するまでの約1年間、いろいろな治療を受けられたそうですね。
村田: 鍼治療、マッサージ、電気治療、温泉、整体術……焼酎漬けのマムシを右ヒジに巻きつけたこともありましたね。とにかくヒジにいいと聞いたら、あらゆることをやりました。最後にはもう精神的に病んでしまって、人に会いたくなくなった。それで人里離れた場所に行こうと、ひとりチームから離れて和歌山県に行ったんです。熊野古道を歩きまして、その奥にある滝で修行を積もうと。真夜中、ろうそく1本の中を岩場で座禅を組み、パンツ一丁になって滝に打たれ続けました。この頃は、もう精根尽き果てていましたね。「もう一度マウンドに上がりたい」「いや、もう野球はきっぱりと辞めるんだ」の繰り返しで、自分がどうすべきなのか、結論が出なかったんです。

 

二宮: 滝に打たれて何か見えてきたものはありましたか?
村田: はい。私が断崖絶壁で滝に打たれている時に、上から岩が次から次へと落ちてきたんです。その時、「あぁ、もうここで死んでもいいや」という心境に陥りました。そしたら、目の前の霧がパッと晴れたように「あぁ、自分は今までなぜこんなにちっぽけなことにこだわっていたんだろう」と思えたんです。ヒジを痛めた自分は、もうエースでも何でもないわけですから、本当に再出発する気があるのなら、ゼロの地点に立ち返らなければならない。それなのにエースとしてのこだわりやプライドが心を支配していて、無の境地になれていなかったんです。そのことに気づくまでに1年もの時間が必要でした。

 

安心感を与えてくれた博士のひと言

 

二宮: 村田さんを執刀したのが、スポーツ医学の権威であるジョーブ博士でした。残念なことに今年(2014年)3月に亡くなられました。村田さんもショックだったでしょう。
村田: 悲報を聞いた時は、本当にショックでしたね。私にとって大の恩人ですから。医師としてはもちろんですが、人間としてとても尊敬できる人でした。ジョーブ博士に出会ったからこそ、私は復活することができたんです。本当に感謝しています。

 

二宮: ジョーブ博士とはどんな思い出がありますか?
村田: 私ね、博士に憎まれ口をたたいたことがあるんです(笑)。手術をする前に、「先生は手術を失敗したことないの?」って。そしたら「ある」と言ったんですよ。その言葉を聞いて、「あ、この人は信頼できるな」と思いましたね。

 

二宮: 実際、手術はいかがでしたか?
村田: 右ヒジの腱が切れていたので、左腕の腱をとって、それを右ヒジに移植するという、当時としては画期的な手術でした。でも、迷いや不安は一切なかった。ジョーブ博士の「医者としてベストを尽くす」というひと言だけで、安心することができたんです。

 

二宮: 手術後、目を覚ました時の右ヒジの状態は?
村田: 全身麻酔が解けて、目が覚めた時、とても成功しているとは思えませんでした。右腕はギブスで覆われていて、隙間から見える小指は親指ほどの太さになっているし、腱をとった左腕もパンパンに膨れ上がっていたんです。そしたらジョーブ博士がやって来て、「手術は成功だ」と。そして、こう言われたんです。「あとは君次第だ。カムバックしたいのなら、真剣にリハビリに取り組みなさい」とね。

 

リハビリで痛感した1球の重み

 

二宮: 一番苦しかったのは、リハビリ中だったのでは?
村田: いや、もう大変も大変。ただ、最初から「ゼロからのスタートだぞ」という覚悟はしていたんです。

 

二宮: キャッチボールができるまでにはどのくらいかかったのでしょう?
村田: 約3か月かかりました。退院してまず最初に行なったのは、手の感覚を取り戻すために、スポンジを握ることからでした。それも朝から晩までずっとね。やがてスポンジが軟式テニスボールになり、さらに鉄アレイへと替わっていった。そうしてようやく10メートルほどの距離でのキャッチボールをしたんです。1日30球、ゆっくり、ゆっくりとね。

 

二宮: 1球1球、村田さんの思いが込められていたんでしょうね。
村田: 1球の大切さを身に染みて感じましたよ。それまで1日に100球も200球も投げていたのが、わずか30球しか投げられないわけですからね。それも、3日やったら1日休みをとらなければならなかったんです。リハビリで一番難しいのは加減なんです。やり過ぎてもダメだし、少なすぎてもダメなんです。

 

二宮: 休日には何をされていたんですか?
村田: 休みの時に何をやるかが、最も大切だと考えていました。「絶対に復帰するんだ」という執念が自分自身を支えていましたから、徹底的に走り込みました。ピッチャーにとって、何より大切なのは下半身ですからね。右ヒジに痛みが発症してからも、ランニングだけは欠かしていなかったんです。

 

二宮: マウンドに復帰するまでには、いろいろな思いが頭の中を駆け巡ったのでは?
村田: カムバックすると決意した以上、弱音を吐くわけにはいきませんからね。とにかく、自分との闘いでしたよ。敵は他の誰でもなく、自分なんです。何の仕事でもそうですが、自分に勝てない者が相手に勝てるわけはありません。

 

(後編につづく)