伊藤数子: 橋本さんご自身のことをお伺いします。ラグビーは高校から始めたそうですね。

橋本利之: はい。東京都出身の私は小・中学時代は野球をやっていて、高校は“甲子園に行きたい”と考えていました。それで都大会ベスト8に入る野球部のある学校を探し、受験しました。ところが進学した目黒高校(現・目黒学院高校)には野球部の専用グラウンドがなかったんです。

 

伊藤: えっ?

橋本: 私も同じリアクションでした。主な練習場所は学校の屋上。“これでは甲子園は難しい”“入学する学校を間違えた”と頭を抱えていたら、ラグビー部のコーチだった体育の先生から誘われ、そこからラグビー人生がスタートしたんです。

 

二宮清純: 目黒高校と言えば、日本代表のレジェンド松尾雄治さんなどがOBにいる全国の強豪校です。

橋本: 私たちの時代が第二次黄金期でしたね。花園には3年間出場し、優勝1回、準優勝1回でした。高校卒業後はラグビー推薦で東洋大学に進み、社会人になってからも3年間、実業団のミノルタ(現・コニカミノルタ)でラグビーを続けました。現役引退後は指導者の道に進みました。そして42歳の時に急性膵炎を患ったんです。急性膵炎は膵液が膵臓を溶かしてしまう難病です。担当したドクターからは「99.9%助からないと言われている病気。君は本当にすごい」と褒められました。

 

二宮: 原因はなんだったんですか?

橋本: ストレスです。当時、私はミノルタのラグビー部の監督でした。しかし会社が吸収合併を機にラグビー部の廃部が決まった。そこでチームの選手たちがラグビーを続けるのを手伝うために全国各地の企業を回りました。病気にかかったのは、それを終え、会社を辞めた後のことです。緊張の糸が切れたことが引き金となったのかもしれません。血糖値が異常に上がり、そのまま倒れてしまったんです。

 

二宮: その時に視力を失ったと。

橋本: そうですね。3カ月間寝たきりでした。意識が戻ってから、徐々に体が動かせるようになっていきました。その時のことは今でも覚えています。パッと目が覚めると、右目が全く見えなくなって、左目はかすかに見えた程度でした。私の中では夢を見ているような感覚だった。それから1週間が経って、ようやく自分が病気だったことを理解しました。最初は落ち込みましたが、“目は見えなくなったけど、命は助かった。死んだら何もない。体も動かせるし、楽しいことはこれからもできるかもしれない”と考えるようになったんです。

 

伊藤: 普通はすぐにそういう気持ちにはなれません。周囲の支えも大きかったでしょうね。

橋本: もちろんです。自分が助かったのは高校時代にラグビー部の厳しい練習に耐え、心臓や内臓を鍛えてきたから。それで“ラグビーに恩返しをしたい”と思うようになったんです。入院の際にお世話になったドクターの紹介で、地域のラグビースクールを手伝い、子どもたちを指導していました。

 

二宮: そこからブラインドラグビーとはどう出会ったのでしょうか?

橋本: 2019年1月、競技普及のためにイングランドからブラインドラグビーのコーチが来日し、日本初の講習会が実施されました。私はそのニュースを聞き、初めてブラインドラグビーの存在を知った。とてもワクワクしましたね。それを機に日本国内でブラインドラグビー協会設立に向けた動きが加速し、ラグビー経験者である私に声がかかったんです。そこから、わずか3カ月で協会が発足し、私が会長に就任しました。

 

 ブラインドラグビーが人生を変える

 

伊藤: あるブラインドサッカーの選手が「サッカーをしたことで日常生活や、人生の考え方が変わった」とおっしゃっていました。それはブラインドラグビーにも通じる話ですよね。

橋本: そうですね。“見えないなら見えないで、どうやって生きていくか”が私の持論です。怖がっていては前に進めない。ラグビーは得点するために“前へ”と突き進むスポーツ。視覚に障がいのある人の中には、外出することに苦手意識を持っている方が少なくありません。何かにぶつかってしまうのではないかという恐怖心、人に迷惑をかけてしまうのではないかとの不安に苛まれるからです。ブラインドラグビーを経験することで、そういった恐怖心や不安を取り除くことができるかもしれない。“私の人生が変わった”と思う方が1人でも増えれば、うれしいですね。

 

二宮: 競技の普及という観点では、盲学校などにアプローチをしていくと?

橋本: はい。そのためには子ども用のボールをつくる必要があります。現在、競技用ボールメーカーのMIKASAと、子ども用ボールの製作を計画中です。盲学校でブラインドラグビーの体験会や教室を実施していきたい。視覚に障がいのある子がブラインドラグビーを経験することで、空間認知能力を養える。スポーツを楽しみながら、いろいろなことを学べれば、その後の生き方や考え方も変わってくるはずです。子ども用ボールの製作はすぐにでも実現させたいと思っています。

 

二宮: 今後に向けての展望を。

橋本: 体験会をもっと充実させていきたいと思っています。そこには障がいの有無に関わらず、すべての子どもたちに参加してほしい。競技を通じ、視覚に障がいのある人はどういうふうに見えて、どう生活しているかも伝えられるからです。そのためには特別支援学校や盲学校だけではなく、公立の学校にも訪問していきたい。それが日本ブラインドラグビー協会の設立目的である「視覚障がい者と健常者が共にスポーツを楽しむ共生社会を実現する」ことに繋がると考えています。

 

二宮: 将来的にはブラインドラグビーをパラリンピックの正式種目にしたいと考えていますか?

橋本: 私はブラインドラグビーのワールドカップをつくりたいと考えています。ヨーロッパの協会の方たちと話を進めています。まずはそれぞれの国がしっかり競技を普及、発展させなければいけない。我々はそこから世界にどんどん広げていきたいと思っています。今年からイングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランドの4つの国や地域で争うプレミアリーグがスタートする予定です。2024年には、そこにフランスとイタリアが加わり、ブラインドラグビー版シックス・ネーションズ(6カ国・地域対抗戦)を、15人制ラグビーのシックス・ネーションズと同時期に開催するという計画を立てています。ブラインドラグビーでは現在、イングランド代表が世界でトップだと言われています。2019年に対戦した際に、敗れたのでなんとかリベンジしたい。設立したばかりの協会ですが、これからもラグビーへの恩返しをしていきたいと思っています。

 

(おわり)

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橋本利之(はしもと・としゆき)プロフィール>

一般社団法人日本ブラインドラグビー協会会長。1960年、東京都出身。目黒高校(現・目黒学院高校)入学後にラグビーを始める。全国高校ラグビー大会(通称・花園)には3度出場。ポジションはプロップやロックを務めた。1983年、東洋大学経済学部卒業後、社会人ラグビーで3年間プレーし、指導者に転向。小学生から大学生、社会人まで、幅広く指導した。2019年4月、日本ブラインドラグビー協会を発足、初代会長兼ゼネラルマネージャーに就任。同年10月には、日本代表チーム「ブラインドラグビージャパン」を編成し、ブラインドラグビー発祥の地・イングランド代表と国際テストマッチを戦った。また各所でブラインドラグビー体験会も催している。

 

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