走りのスペシャリストとして鳴らした元広島・今井譲二の名前を、ちらほら目にするようになったのは、東京ヤクルト・村上宗隆がブレークした2019 年のシーズンに入ってからだと記憶している。入団2年目のこの年、36 本塁打をマークした村上は、21 年には本塁打王、そして22 年には史上最年少で三冠王に輝いた。記録した56 本塁打は日本人登録選手としては史上最多だった。

 現役引退後、今井は故郷の熊本に戻り、野球塾を営んでいた。「小学3年生の時、父親に連れられ、お兄ちゃんと一緒に来たのがムネだったんです」。今井が度肝を抜かれたのは、小学5年時の夏合宿での交流試合だ。最初の打席でレフトへ、次の打席でセンターにアーチを架けた村上少年に「ムネ、今度は引っ張ってみろ」と発破をかけると、指示通りライトスタンドに打球を運んでみせたというのである。当時の写真を指差しながら、今井は懐かしそうに振り返った。「これ、高めのボールに対してもバットのヘッドが立っているでしょう。こんな小学生、見たことありません」。

 ちゃちゃを入れるわけではないが、今井はプロ通算11 年で1本も本塁打を放っていない。長打も二塁打が1本あるだけ。もっぱら出番は1点を争う終盤で、通算62 盗塁のほとんどを代走で記録している。ひとつ先の塁を奪うことに心血を注いできた男が、年を経て天性の長距離砲の卵と巡り合うわけだから、人生とは不思議なものである。

 村上の話とは別に、今井には前々から聞いてみたいと思っていたことがあった。それは1986 年日本シリーズ第8戦でのワンシーン。3 対2 で西武1点リードの8回裏、広島は先頭の達川光男が四球を選び無死一塁。阿南準郎監督は走り屋の今井を代走に送る。犠打で1死二塁。続く高橋慶彦も四球で1死一、二塁。「左腕の工藤公康なら走れる」。今井がスタートのタイミングを計っていた、まさにその時だ。ショートの石毛宏典がスッと近づいてきて、こう囁いた。「オマエ、まさかこんなところで走らんよなぁ」。中大出身の今井と駒大出身の石毛は同級生。東都でしのぎを削りあってきた仲だ。

 「心を見透かされていると思った」と今井。金縛りに遭ったように足が止まった。続く山崎隆造のセンター方向への打球を岡村隆則が好捕。ヒットと判断してスタートを切っていた今井は帰塁できず、同点のチャンスは潰えた。「もし僕が三盗を決めていたら、間違いなく生還できる打球でした。ああいう目に見えないちょっとしたことが当時の西武の強さでした」。新年早々、石毛からメールが届いた。「駅伝は(駒大が中大に)勝たせてもらってありがとうな」。親交は今も続いている。
 
<この原稿は23年1月4日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>

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