三笘薫を「まるで日本のネイマールだ」と評したのは、東京五輪時のメキシコ・メディアだった。テクニシャンには見慣れたメキシコ人にとっても、ヌルヌルと抜けていく三笘のドリブルは異次元に感じられた、ということなのだろう。

 

 だが、それほどの才能を頑なに先発起用しようとしなかったのがW杯カタール大会時の森保監督だった。どれほど先発からの起用を待望する声が高まっても、その姿勢は変わらなかった。

 

 なぜカタールでの森保監督は三笘を先発で使わなかったのか。それは、三笘が「日本のネイマール」だったからではないか、とわたしは思っている。

 

 本家のネイマールは、いつ、どんな相手と対峙しようと、好きなように翻弄できる。使わないのは、単なる宝の持ち腐れ。ただ、カタールまでの三笘は違った。100%の相手と向かい合った時は、封じられてしまうこともあった。ならば、相手が体力と集中力を消耗させた、つまり70%から60%になった状態にぶつける。そうすれば「日本のネイマール」は本家に負けない働きをすることができる――そう森保監督は考えたのではないだろうか。

 

 ところが、一足早くシーズンを再開させたイングランドで、三笘が凄いことになっている。とにかく、止まらない。W杯の印象的な働きもあり、対戦相手も相当に警戒はしてきているはずなのだが、正直、それが役に立っているようにはまるで見えない。1月3日、敵地でのエバートン戦で三笘が相手最終ラインを切り裂き、先制弾を叩き込んだのは、まだ開始早々、相手が頭も身体もベストに近いはずの前半14分だった。

 

 これが一時的なものではなく、アベレージなのだとしたら、いまの三笘は、確実に本家に近づいている。それも、とんでもない勢いで近づいている。もはや、数カ月前の彼とは別人に近い印象さえある。

 

 本来、サッカーに限らず、スポーツというのは積み重ねの産物である。できなかったことができるようになるまでには時間が必要であり、その時間と努力なくして、急激な成長などあるはずがない。

 

 もちろん、三笘も日々の努力を続けてはいるのだろうが、ここのところの怪物級の働きをみると、急にスイッチが入ったような印象を受ける。自分自身が知らず知らずのうちに封印していた部分を解き放ったというか、できるはずがないと思っていたことが、そんなことはない、十分通用するということに気付いたというか。プレミアの猛者相手に必死に向かっていっていたのがW杯前の三笘だとしたら、いまの彼は、舌なめずりをしながら品定めをしているようにすら見える。

 

 プレミアのDFを相手に余裕をもってプレーできるとなれば、もはや三笘を困窮させるDFを探す方が難しい。

 

 となれば、期待せずにはいられない。

 

 三笘を変えたのは、まず間違いなく、カタールでの経験である。かの地でつかんだ自信と悔しさが、どこかにあった三笘のスイッチを押した。いまの彼は、ブライトンという小さなクラブに所属しているのが不思議なほどのレベルにある。

 

 同じことは、他の選手にも起こりうる。だとしたら……。

 

 鬼に爆笑されるのを覚悟の上で、3年後の夏をイメージしてみる。間違いない、わたしは相当にニヤけた面構えになっている。

 

<この原稿は23年1月7日付「スポーツニッポン」に掲載されています>


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