W杯決勝が行われるのと同じ日にM-1グランプリが行なわれ、大河ドラマの最終回が放送された。1週間後には有馬記念。いつもなら「ああ、ビール飲みてえ」がまず先に来た“W杯ロス”を、今年は素晴らしく新鮮な気分で満喫している。

 

 はやリーグ戦が開催されたイングランドを除けば、各国の選手たちも思い思いの休暇を楽しんでいるに違いない。大会前はいろいろと言われた年末開催のW杯だが、終わってみれば今後もこの時期に開催すべきなのでは、という気分にすらなっている。W杯が終わったらクリスマス。うん、悪くない。

 

 ただ、とても浮かれ気分にはなれない日本人選手もいるはずだ。

 

 大会前、活躍が期待される選手として多くの人が前をあげていたのは、鎌田であり、久保であり、南野だった。いや、「多くの人」などと責任を転嫁してはいけない。わたしは、彼らの活躍を大いに期待していた。彼らの活躍なくして、日本の決勝トーナメント進出はありえない、とも思っていた。

 

 だから正直、唖然としている。

 

 初めて決勝トーナメント進出を果たした02年のチームは、仙台でトルコと戦う前に燃え尽きていた。あれが、あのチームの最高到達点だった。

 

 守って守って本田圭佑の決定力にすべてを託す、というやり方をとった南アフリカでの日本代表も、ベルギーをあと一歩のところまで追い詰めたロシアでの日本代表も、持てるものはすべて出し切っていた。出し切って、やり尽くして、それでも力及ばなかったのがこれまでのベスト16だった。

 

 今回は、違う。

 

 鎌田はさっぱりだった。久保は単なる守備の人だった。南野にいたっては、正直、何を期待され、何をやろうとしているのかがまるで見えなかった。

 

 では、彼らはW杯出場に値しない才能だったのか? とんでもない。やり方次第、組み合わせ次第、そしてバイオリズム次第では、世界を驚愕させることも可能な選手たちだった。少なくとも、今回の日本代表の中にあっても、傑出した才能と実績の持ち主だった。

 

 ゆえに、カタールでの日本代表は、本来の飛車角がまったく機能しない状態でありながら、ベスト8まであと一歩のところまで勝ち進んだ、これまでとはまったく違う日本代表だった。つまり、のびしろはまだたっぷりと残されている。言い方を変えれば、こんなにも余力を残したまま負けた日本代表は、かつてなかった。

 

 敗れなかったベスト16の壁を破るためには、やらなければならないことはたくさんある。今後は単に海外でプレーするのではなく、ビッグクラブでプレーするなり、個人的なタイトルを狙うなりといった目標の上方修正が必要なのはいうまでもない。国内に関しては、選手の平均年俸が世界の20位前後とされるJリーグの環境を変えなければならない。今度こそ、企業名の解禁について真剣に議論すべきだとわたしは思う。

 

 だが、もっとも簡単で効果的な対策は、鎌田が、久保が、南野が、なぜ力を発揮できなかったのかを検証することではないか。

 

 期待された主力が力を発揮できなかった、という点において、日本は大会のトップクラスにあった。それでいながらのベスト16。だから素晴らしいし、だからダメだった。「素晴らしい」という視点にたった報道は山ほど見た。来年は、違った視点からの記事や番組もみてみたい。

 

<この原稿は22年12月29日付「スポーツニッポン」に掲載されています>


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