第7戦にまでもつれ込んだ日本シリーズは、オリックスが東京ヤクルトを4勝2敗1分けで下し、前年のリベンジを果たすとともに、26年ぶりに日本球界の頂点に立った。

 

 

<この原稿は2022年12月2日号『週刊漫画ゴラク』に掲載されたものです>

 

 今季限りでオーナー職を退く宮内義彦オーナーは、中嶋聡監督に続いて胴上げされ、満面の笑みを浮かべながら「冥土の土産と言ったら怒られるか。仰木(彬)さんにいい報告ができる。無上の喜びです」と語った。

 

 前回の日本一は仰木が指揮を執った1996年。6000人を超える犠牲者を出した阪神・淡路大震災の翌年のことだ。

 

 オリックスの前身であるオリエント・リースが阪急電鉄から球団を買収すると発表したのが1988年10月19日。よりによって、この日は阪急電鉄の81回目の創立記念日だった。

 

 この4日後の23日、入団2年目の中嶋は、西宮球場での最終戦で3ランを放っている。同郷の先輩であり、通算284勝をあげた山田久志の引退試合に花を添えた。

 

 元々オリエント・リースは三和銀行(現・三菱UFJ銀行)と日綿実業(現・双日)が中心となって1964年4月に設立されたリース会社である。

 

 当時、会社の知名度は低く、球団買収の一報が入った時、クレジット会社のオリエント・ファイナンスと勘違いした球界関係者も少なくなかった。

 

 オリエント・リースの球団買収の主目的は、知名度の向上だった。というのも、89年4月から商号をオリックス株式会社に変更することが決まっており、そのお披露目の意味が込められていた。

 

 一方、阪急電鉄にとって、赤字を垂れ流す球団はグループのお荷物と化しており、両社の思惑は一致した。

 

 だから球団売却の記者会見で、小林公平社長(当時)は、こう述べたのだ。

 

「50年を超える阪急ブレーブスの歴史の中で、プロ野球の振興、青少年スポーツの振興という、球団の社会的使命は一応達成したと判断したからです」

 

 阪急電鉄創業者の小林一三は沿線を宅地化し、サラリーマンに住宅を供給した。魅力のあるまちづくりに娯楽は欠かせない。そのための文化的コンテンツがブレーブスであり、宝塚歌劇団だったのだ。

 

 生前、一三は「私が死んでもタカラヅカとブレーブスは売るな」と語ったといわれる。その約束は果たされなかったが、後身のオリックスを阪急の生き残りである中嶋が率い、通算5度目の日本一を達成したのは、せめてもの供養になったのではないか。泉下の一三にも朗報は届いているはずだ。

 


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