楽山孝志が李国秀の指導を初めて受けたのは、1997年9月、高校2年生秋のことだった。

 

 李は1957年に横浜で生まれた。父親は韓国の済州島出身、母親は大阪在住の在日朝鮮人である。両親は早くに離婚、中華街で焼肉屋を経営する母親によって育てられた。小学校からサッカーを始め、すぐに頭角を現した。韓国学園在学中に読売クラブのユースチームに入り、すぐにトップチームの監督だったオランダ人のファン・バルコムにその才を認められ昇格。17歳のとき、日本リーグ2部の試合に出場している。その後、香港リーグのキャロライナヒルを経て、『全日空横浜トライスター』へ加入。選手兼実質監督としてクラブを神奈川県リーグ2部から日本リーグ1部へと昇格させている。

 

 独得な李の指導

 

 現役引退後は、神奈川県の桐蔭学園サッカー部監督に就任、長谷部茂利、戸田和幸、森岡隆三、山田卓也などのJリーガーとなる選手を育てた。97年に桐蔭学園を辞任後、清水商業の大滝雅良から指導を請われたのだ。

 

 清水商業の選手たちを李が指導。その変化の様を映像記録とすることになった。

 

 李の教えは独特であり、その言葉遣いは、他の指導者とかなり違う。

 

 例えば、李のインステップキックは、足の甲の外側、いわゆるアウトフロントに当てる。この“インステップキック”はボールの芯にあてるため、小さな足の振りで強く速いボールを蹴ることができる。そのため、相手チームの選手はパスの出所が読みにくい。正確なキックに必須なボールの芯を捕らえる癖もつく。

 

「李さんから言われたのは、“良い立ち方”をすること。“良いボールの持ち方”“いつスピードをいつ上げるのか”」

 

 いい立ち方とは、ボールの置き場所、身体の向き、対戦チームの選手との距離の取り方などが関わってくる。力任せに走るのではなく、考えなければならない。李の練習は、身体よりも頭が疲れると言われるゆえんだ。

 

 緩急も李が重視するポイントである。

 

 サッカーでは自分たちがボールを保持していれば攻められることはない。相手が奪いに来なければ、ドリブルで前に進める。そして相手が来れば、安全なところにいる味方にパスを出す。パスを繋ぎながら、相手のディフェンスの綻びを探す。これがサッカーの基本的な決め事である。ゴールに近づくと一気にスピードを上げる必要がある。

 

 言葉で表現するのは簡単だが、なかなかそう動けない。

「チームとしてやるべきこと、個人でやるべきことをわかり易い言葉で伝えてくださった。ぼくの中では新鮮でした。そんな風に指導をされたことがなかったので」

 

 足元の技術、運動能力とこうした教えは別である。能力の高い選手であっても戸惑う。そうした選手に李はわざときつく当たることがある。

「あのビデオの中でコーチングの言葉で言うと、ぼくと平川(忠亮)さんが様々な“提示”を受けているはずです」

 

 できない選手を改善するという意味では、ぼくははまり役でしたねと笑った。

 

 楽山より1学年上の平川は筑波大学を経て、浦和レッズダイヤモンドに加入することになる。

 

 そんな中、別格だったのが小野伸二だった。

「小野さんは1を言ったら、数歩先を予測して5ぐらいできちゃう人。李さんはこういうことを言いたいんでしょ、こういうことですよねって、李さんの考えを汲み取って、体現できる。ぼくは自分の感覚でやって、李さんの提示に対して改善ができない。それをやって、怒られ続ける」

 

 楽山が清水商業で完全にレギュラーを掴んだのは、小野たちが卒業した高校3年生のときだった。

 

 高校3年でサッカー引退を検討

 

 静岡県予選を勝ち抜き、冬の全国高等学校サッカー選手権に出場。初戦で高松商業を3対0で下したが、続く兵庫県代表の滝川二高戦は2対4で敗れた。

 

「タケ(林丈統)に3点ぶち込まれたんです。タケは速いし、シュート精度がすごく高かったですね。ボレー、ショートバウンドのミートがずば抜けてましたね」

 

 林はこの大会で8得点を挙げて大会タイ記録に並んでいる。高校卒業後は、ジェフユナイテッド市原に進んだ。このとき、楽山は林と同じクラブでプレーすることになるとは想像しなかったろう。彼はこの滝川二高戦を最後にサッカーを引退するつもりだったのだ。

 

 楽山が清水商業を選んだのは、プロ選手になるためだった。しかし、その誘いがなかったのだ。

 

「わざわざ富山から静岡の学校に行かせてもらって、父親には苦労を掛けているじゃないですか。自分の中ではそのリミットではないですけれど、高校3年生のときにプロからのオファーがなかったらサッカーを辞めると親父に伝えようと思っていたんです」

 

 前号で触れたように同級生である池田学は浦和レッドダイヤモンズへ、小林宏之は筑波大学への進学が決まっていた。そんな中、楽山は1部上場企業からの内定を得ていた。入社すれば普通の会社員として悪くない給料が保証されるだろう。そんな人生も悪くないと思いこむようにしていた。

 

 そんなある日、楽山は李から意外な言葉を掛けられることになる。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。最新刊は「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。

2019年より鳥取大学医学部附属病院広報誌「カニジル」編集長を務める。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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