怪物ルーキーは2軍で開幕を迎えることになる。
 オープン戦で17打数2安打、打率1割1分8厘と極度の不振に喘いでいた北海道日本ハムの中田翔が、梨田昌孝監督から2軍スタートを命じられた。
 プロは実力の世界。これだけ打てなくては仕方がない。

 しかし、それ以上のアキレス腱は、素人に毛の生えたような内野の守備だ。
 本人も「(ボールが)飛んできたらどうしようかと考えてしまって、打つ方にも影響した」と語っていた。
 怪物ルーキーにとって、むしろ2軍スタートはよかったのではないか。
 これをチャンスだと考え、しっかり守備の基礎を身につけることだ。

 というのも、取り柄がバッティングだけだと、ヒットが出ないと精神的にも追い込まれてしまう。しかし、守備に自信のある選手は「打てない日は守りでチームに貢献しよう」と気持ちを前向きに切り換えることができる。
 しかもバッティングと違って、守備にはスランプがない。まさに“鉄は熱いうちに打て”なのだ。

 かつて西武に辻発彦(現中日二軍監督)という守備の名手がいた。セカンドでゴールデングラブ賞に8度も輝いている。
 これだけの名手でありながら、プロに入団した時の守備の評価は高くなかった。
 広岡達朗監督(当時)には「基本ができていない」と酷評された。
 うまくなるには、ひたすらボールを追い続けるしかない――。そう心に決めた辻は、来る日も来る日もユニホームが泥まみれになるまでボールを追った。
 そんな辻を呼び、広岡はこう諭した。
「稽古とは一から習い、十を知る。十より還る元のその一」
 含蓄のある言葉である。
 要は何事も基本が大切だということだ。

 その辻は現役時代、私に守備の極意についてこう語った。
「守備で最も大切なのは、攻めるという気持ちです。出だしの一歩で全てが決まると言っても過言ではない。
 難しいゴロを、打球のコースを読むことによって簡単に処理する。だって、捕れていた打球を内野安打にすると自分が悔しいじゃないですか。たとえエラーのランプがつこうが、絶えずボールに対して攻撃的な姿勢で臨む。これが僕のポリシーです」

 この“辻イズム”が今から22年前、中田以上の怪物ルーキーとして注目を集めた清原和博(当時西武)に大きな影響を与えたことはあまり知られていない。
 当時の清原のバッティングの注ぐ情熱を10とするなら、守備に対するそれは2か3くらいのものだった。
 それが辻と一、二塁間を組むことで大きな変化をとげたのである。

 清原は語ったものだ。
「辻さんは常々、僕に向かって“守備は好きにならないとうまくならない”と言うんです。それまではどっちかというと“守備は好かんなァ”“早く守備練習、終わらんかなァ”というタイプだった。
 それが辻さんと一緒に練習をするようになって、考え方が変わってきた。あの人はね、“キヨよ、守備というものはグラブの指先にまで神経を通さなあかんぞ”と教えてくれたんです。それからですよ。守備を好きになろうと努力し始めたのは……」

 清原というと、最近は故障がちで、お世辞にも動きが素早いとは言えないが、それでも西武時代に5度もゴールデングラブ賞に輝いている。辻との出会いが、清原の守備に対する意識を高めたのである。

 北海道日本ハムにも、田中賢介、金子誠といった守備の名手がいる。辻が清原にそうしたように、彼らは先輩として、中田を“守備好き”にさせなくてはならない。
 一軍ヘッドコーチの福良淳一、一軍内野守備コーチの真喜康永、二軍監督の水上善雄の責任も重大だ。
 幸いこの3人は現役時代、いずれも守備の名手として鳴らした。中田に基礎を教えるには、打ってつけの男たちである。

 バッティングにはセンスが必要だが、守備は鍛えれば鍛えるだけうまくなる。それがプロ野球のセオリーだ。
 中田の場合、あれだけの体をしているのだから、激しく鍛えたところでどうってことあるまい。相撲の世界に「3年先の稽古」という格言があるが、今の中田に求められているのも、まさにそれである。

<この原稿は2008年4月11日号『週刊漫画ゴラク』に掲載されたものです>

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