キャプテンとしてチームを激しく鼓舞する姿から“闘将”と呼ばれた柱谷哲二さん。「ドーハの悲劇」の瞬間もピッチに立っていた。当HP編集長・二宮清純が、当時の様子や昨年のワールドカップ(W杯)について聞く。

 

二宮清純: 森保一さんの代表監督続投が決まりました。オフトジャパンで代表入りした森保さんが、遠征先ではキャプテンの柱谷さんと同室だったそうですね。

柱谷哲二: はい。代表監督だった(ハンス・)オフトの要望でした。当時、ポイチ(森保監督のあだ名)の名はまだそんなに知られていなかったし、代表に慣れさせるためにそうしたのでしょう。

 

二宮: 確かに、大抜擢といわれていましたね。一緒にプレーした感想は?

柱谷: もうびっくりしました。ディフェンダーの井原(正巳)とも話をしましたが、ポイチが前にいるとすごくラクだったんです。ボランチ(守備的ミッドフィールダー)の仕事として「相手をつぶしに行く(起点を作らせない)こと」と「パスコースを消すこと」を要望しましたが、それを忠実にやってくれた。センターバックがラクだと感じるのは、ボランチが機能していた証しです。

 

二宮: プレーを見ていても、「目立ちたい」という意識のかけらも感じませんでした。

柱谷: その通りです。とにかく堅実なプレーで、ミスもほとんどない。だから、すごく攻守のリズムがよくなるんです。

 

二宮: 当初、司令塔だったラモス瑠偉さんはどう思っていたのでしょう?

柱谷: 面白くなかったでしょうね。ヴェルディ(川崎/現・東京ヴェルディ1969)だったら100パーセント、ラモスさんにパスを出すところを、ポイチはオフトに言われたままにサイドにボールを出していた。ラモスさんは、よく「何なんだアイツは!?」って怒っていましたよ(笑)。

 

二宮: 当時ラモスさんは、泣く子も黙る10番(エース)ですからね。ある意味、森保さんは度胸がある。

柱谷: そうしたメンタルの強さもオフトは見抜いていたのでしょう。大人しそうに見えるけれども、芯は強い。それは代表監督としても垣間見られた部分です。

 

 

二宮: 続いて、日本サッカーにとって重要な年となった1993年についてお聞きします。まず、この年の5月にJリーグが開幕しました。柱谷さんは、ヴェルディ川崎の一員として古巣・日産自動車を前身とする横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)と戦ったわけですが、あの時、どんな思いを抱いていましたか。

柱谷 うれしくてたまらなかったですね。国立競技場の周辺にはヴェルディやマリノスのフラッグが飾られて、降り注ぐようなカメラのフラッシュや歓声の中を入場した。「君が代」を歌った時は、思わず涙がこぼれました。チームメートの都並(敏史)さんは思いっきり音を外していましたけど(笑)。

 

二宮 選手や関係者が待ちわびたプロ化ですからね。

柱谷 本当にそうです。それこそ、少し前までは日本代表の試合でも勝利ボーナスなんてなかったし、そもそも日当が1万円の時代でしたから。

 

二宮 現在から見ると隔世の感があります。日本代表と言えばこの後ですね、「ドーハの悲劇」が起こるのは……。

柱谷 はい。天国から地獄に突き落とされました。

 

二宮 Jリーグが開幕した年の10月、日本代表はW杯アメリカ大会のアジア地区最終予選に進みました。カタールのドーハで開催され、2週間で5試合を行う過密日程。日本は1位で最終戦を迎え、イラクに勝てば悲願の本戦初出場となるはずでした。

柱谷: 実は、最終予選の直前にウイルス性の肝炎を患っていたんです。かなりつらい状態でしたが、それでも「これでサッカーができなくなってもいいから行かせてほしい」と医師に懇願してドーハに来た。それぐらい、この最終予選に懸けていました。

 

二宮: 運命の一戦は、後半24分に中山雅史さんのゴールで日本が2-1と勝ち越し。アディショナルタイムに入り、試合終了かと思われたところで、イラクがコーナーキックのチャンスを得ました。

柱谷: コーナーキックになった時、私もラモスさんも主審に「フィニッシュ! フィニッシュ!」と訴えたのですが、「ワンモア・プレー」だと言われました。

 

二宮 本当に最後のワンプレーだったわけですね。イラクはショートコーナーを使い、そこから上がったボールをヘディングでゴールに押し込まれて同点。その後すぐに試合は終わり、日本は得失点差で3位、予選敗退となりました。聞くのは酷かもしれませんが、どんな心境でしたか。

柱谷: 酷暑の過密スケジュールもあって心身ともに限界で、視野がどんどん狭くなり、最後は立っているのがやっとでした。そこにショックが重なり、「うそだろう」と思っただけで、後の記憶がほとんどないんです。後で映像を見て、「こんな感じだったのか」と理解しました。

 

(詳しいインタビューは3月1日発売の『第三文明』2023年4月号をぜひご覧ください)

 

柱谷哲二(はしらたに・てつじ)プロフィール>
1964年7月15日、京都府京都市出身。ポジションはボランチ(守備的ミッドフィールダー)、センターバック。兄(幸一)の影響で小学校時代にサッカーを始める。京都商業高校(現・京都先端科学大学附属高校)、国士舘大学を経て日産自動車サッカー部に所属。92年には日本サッカーリーグ年間最優秀選手に選出された。同年、ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ1969)へ移籍し、チームの中心メンバーとして活躍。日本代表には88年に初招集され、92年にキャプテンに就任。翌年のワールドカップアメリカ大会アジア最終予選のイラク戦に先発フル出場し、「ドーハの悲劇」を経験した。98年に現役を引退。その後、Jリーグで監督やコーチを務め、現在は解説者として活躍する傍ら、花巻東高校サッカー部のテクニカルアドバイザーとして後進の育成にも携わる。Jリーグ通算183試合出場13得点、日本代表国際Aマッチ72試合6得点。


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