バレーボールに懸けた人生を一度着地して見つめ直したい ~中田久美氏インタビュー~

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 15歳で日本代表に選ばれて以来、セッターとしてチームを牽引してきた中田久美さん。これまでの栄光と挫折のバレーボール人生を振り返りながら、現在の心境に至るまで、当HP編集長・二宮清純と本音で語り合う。

 

二宮清純: まず、ご自身のバレーボール人生を振り返ってもらいたいと思います。中学校からバレーボールを始めて、中学2年の時には英才教育で知られる「LAエンジェルス」に2期生として入団。その後、15歳で日本代表に選出されました。「天才少女」とも呼ばれましたが、それについては、どんな気持ちでしたか。

中田久美: 実績もほどんどない中だったので、すごく抵抗がありました。本当の自分と周りとの評価のギャップを埋めるのが大変でした。

 

二宮: 中学校を卒業してすぐに実業団のトップ・日立に入りました。不安が先でしたか、それとも、やれるという感じでしたか。

中田: すでに中学校の時から日立の体育館で練習をしていたので、常に隣に“世界”があったという感じです。だから驚きはなかったものの、何とかしてポジションを取らないと洗濯係で終わってしまうという不安はありました。

 

二宮: エッ、洗濯係ですか!?

中田: そうです。当時の日立は相撲部屋と同じように実力が全てでした。年齢の上下に関係なく、レギュラーポジションを取らなければ、遠征先では洗濯物を洗わなければいけない。移動もレギュラー6人は飛行機で、残りは新幹線移動でした。その意味では、年少者でも結果を出すしかなかったのです。

 

二宮: やがて1984年、18歳でロサンゼルス五輪に出場。日本女子は64年の東京五輪で金メダルを獲得して以来、メダル獲得を続けてきました(80年のモスクワ五輪は不出場)から、プレッシャーも大きかったのでは?

中田: そうでもなかったです。むしろ、開幕戦の前日まで他の体育館を借りて朝から晩まで練習していて、その練習があまりにも大変だったので、早く試合が始まってほしいと思っていました(苦笑)。

 

二宮: ロス五輪では銅メダル獲得をしましたが、選手たちに笑顔はありませんでした。キャプテンの丸山(旧姓・江上)由美さんは「表彰気が終わったら、すぐにメダルを首から外しました」と語っていましたが、それだけ女子バレーは金メダルを宿命付けられていたわけですね。

中田: はい。だから、銅メダルをもらっても全くうれしくなかった。失敗したというイメージしかなかったですね。

 

二宮: 次のソウル五輪(1988年)でリベンジを目指していた86年、練習中に右膝前十字じん帯を断裂し、当時は再起不能と言われました。

中田: けがをした瞬間は、1カ月ほどで復帰できると思っていたので、医師から「治すのは難しい」と言われた時は絶望しました。魂が抜けてしまったようで、何も考えられない状態でした。

 

二宮: 15歳で代表入りし、バレーボールに人生の全てを懸けてきたわけですからね。

中田: それで50針縫う大手術の後は、きついリハビリと食事制限の日々が待っていました。体重が増えてしまうと膝に負担がかかるので、摂取カロリーを抑える必要があったんです。

 

二宮: 手術とリハビリを乗り越えてソウル五輪に間に合ったこと自体が奇跡でしたが、結果は四位に終わりました。

中田: もちろんメダルを取りには行ったのですが、どこか自分の中で出場できたことに満足していた部分があったのかもしれません。それまでのリハビリがあまりにも壮絶だったし、何よりアスリートとしてはけがをした時点ですでに終わっていた感がすごくありました。心技体のバランスが、全く整っていなかった。

 

二宮: それは、自分が思い描いたようなプレーができないという葛藤でしょうか。

中田: おっしゃるとおりです。目でボールを捉える感覚は鈍っていませんでしたが、目から足に伝えるまでが遅くなった感じでした。私は右足が軸足だったので、その一歩の反応が遅れることによって二歩目も三歩目も遅れてしまい、最終的には指でトスを調整しなければいけない状況に陥りました。

 

二宮: 最後は指で調整できたとしても、その前提として下半身が動いていないと、どこかに無理がきますよね。

中田: はい。一番大変だったのは、正座ができないので、深い所に来るボール、特に右側に来るボールに対してうまく対応できないことでした。結果として右側の守備範囲が狭くなってしまいます。その分、守備位置を右寄りにして左側を広くするのですが、そうすると今度はセットアップの距離がうまくとれないんです。

 

二宮: それはもどかしかったでしょうね。

中田: イライラが募るばかりでした。でも、その分、相手との駆け引きはすごく研究したし、駆け引きを見極める目は磨かれたと思います。「相手を左右に振るとはどういうことなのか」とか、「スパイカーの最も打ちやすいトスとはどういうものなのか」とか、より深く考えるようになりました。

 

(詳しいインタビューは4月1日発売の『第三文明』2023年5月号をぜひご覧ください)

 

中田久美(なかた・くみ)プロフィール>

1965年9月3日、東京都練馬区出身。80年、15歳1カ月で全日本デビューを果たす。84年ロサンゼルス五輪(銅メダル)、88年ソウル五輪(4位)、92年バルセロナ五輪(5位)に出場し、チームの要として活躍。バルセロナ五輪では日本選手団の旗手を務める。92年に現役を引退。95年に復帰し、翌年、日立ベルフィーユのコーチに就任。2012年、久光製薬スプリングス監督に就任し、同年、天皇杯・皇后杯全日本バレーボール選手権大会で優勝に導いた。その後、V・プレミアリーグと黒鷲旗全日本男女選抜大会も制覇し、女子チームで初めてとなる3冠を達成。東京五輪では女子バレーボール初の五輪女性監督として指揮を執るも、結果は予選ラウンド敗退。現在は全国各地での講演活動などの傍ら、4月から筑波大大学院に進学する。

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株式会社第三文明社

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月刊誌「第三文明」で2010年1月号より好評連載中の「対論×勝利学」は、 二宮清純が一流アスリートや指導者などを迎え、勝利への戦略や戦術について迫るものです。 現場の第一線で活躍する人々をゲストに招くこともあります。 当コーナーでは最新号の発売に先立ち、インタビューの中の“とっておきの話”をご紹介いたします。

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