今年1月、74歳で亡くなった門田博光(南海―オリックス―ダイエー)は、王貞治の868本、野村克也の657本に次ぐNPB歴代3位の567本塁打の記録を持つ大打者でありながら、スターの印象は薄い。

 

 

<この原稿は2023年2月27日号『週刊大衆』に掲載されたものです>

 

 イメージ的には、いぶし銀。小さな体で、いかにボールを遠くへ飛ばすか。それを追求し続けた“打撃の職人”だった。

 

 あまり知られていないが、門田は社会人野球の倉敷レイヨン岡山時代の1968年のドラフトで阪急から12位指名を受けている。

 

 この年のドラフトは大豊作で、1位は阪神=田淵幸一(法大)、広島=山本浩二(法大)、東映=大橋穣(亜大)、大洋=野村収(駒大)、中日=星野仙一(明大)、南海=富田勝(法大)、東京=有藤道世(近大)、西鉄=東尾修(箕島高)と、ほとんどの選手がチームの主力となった。

 

 とりわけ大当たりだったのが阪急で、1位・山田久志(富士鉄釜石)、2位・加藤秀司(松下電器)、7位・福本豊(同)と、指名し入団した3人の選手が、後に名球会入りしているのだ。いかに阪急のスカウトが優秀だったかが分かるだろう。

 

 都市対抗で覇を競った山田や加藤、福本に比べ、自らの順位が低かったのが気に入らなかったようだ。門田は入団を拒否し、翌69年のドラフトで南海から2位指名を受け、プロ入りする。

 

 入団2年目の71年、120打点をマークして打点王に輝くが、プレーイング・マネジャーだった野村克也と衝突する。

 

「狭い大阪球場で、なんでバットを振り回す必要があるんや。80%の力で振れ」

 

 それでもフルスイングを辞めなかったのは「ボールを砕く」「投手をねじ伏せる」という彼なりの打撃哲学があったからだ。

 

「プロの速いボールをいかにして仕留めるか。小さな体の僕には、速くバットを振ることしか解決策がなかった」

 

 門田が持つバットは、私の目には刀のように映った。賞金首を狙う腕利きの素浪人のような凄味が彼にはあった。合掌

 


◎バックナンバーはこちらから