第255回 人生のベースになった大学時代 ~楽山孝志Vol.8~

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 南米大陸のブラジルやアルゼンチン、あるいは欧州のイングランドや、スペイン、イタリア、フランス、ドイツといった“サッカー先進国"では「18才」という年齢がひとつの区切りとなる。

 

 プロフェショナルなサッカー選手となることを夢見る少年たちは、一定の年齢になるとクラブのテストを受ける。例えば、最も人材を生み出している国、ブラジルでは、トップチームを頂点として『ジュニオール』、『ジュベニール』、『インファンチウ』と年齢ごとのカテゴリーに分類されている。これはジュニオールは日本のユース、ジュベニールはジュニアユースに相当する。

 

 名門クラブの下部組織に入るには、試験をくぐり抜けなければならない。さらに、上のカテゴリーに昇格する際、篩いに掛けられ、能力のない選手は落とされる。トップチームへと昇格する18才までにプロ選手に必要な資質を鍛えていく。

 

 かつて元日本代表監督のジーコはぼくにこう教えてくれた。自分はフラメンゴの下部組織に入ったとき、抜群の視野の広さ、足元の技術を評価されたものの、身体的な強さが足りないと指摘された、と。そこでフィジカルコーチについてサッカーに必要な筋力をつけることになった。今から50年以上前の話である——。

 

 残念ながら、現時点でさえ、日本サッカーは、サッカー先進国のようなシステムを構築できていない。高校卒業後、大学のサッカー部を経て、Jリーグに入る選手も少なくないのはその一例だ。好意的な見方をすれば、18歳の時点では未完成の、そして成長曲線が緩やかな選手を涵養できる体制ともいえる。

 

 痛感したフィジカルの重要性

 

 楽山孝志はそんな選手のひとりだったかもしれない。

 

 99年4月、清水商業高校を卒業した楽山は、中京大学体育学部に進んでいる。

 

 中京大学は1954年設立の中京短期大学を前身として、56年に商学部の単科大学として開学した。スポーツに力を入れており、59年に体育学部を設置した。体育学部は愛知県豊田市貝津町の豊田キャンパスにあった。

 

 楽山は清水商業時代に何度か練習試合でサッカーグラウンドに行ったことがあった。

 

「山に囲まれているような感じで、周りに何もない」

 

 のどかでサッカーに集中できる環境でしたと笑った。

 

 中京大学サッカー部は大所帯だった。部員は100人を超えており、A、B、Cの3チーム制を敷いていた。

 

「Aの人はほとんどスポーツ推薦でしたね。国体や全国レベルの試合に出ているような人ばかり」

 

 Aチームには、2学年上に、ゴールキーパーの山岸範宏、川井光一、ひとつ上に末岡龍二がいた。彼らはその後、それぞれ浦和レッズ、愛媛FC、アルビレックス新潟に入る。また、同期にはアビスパ福岡に加入後、大学入学した西政治らがいた。2学年上、清水東出身の山崎光太郎はグランパスに所属しながら大学に通っていた。楽山が入学したときはグランパスを退団し、中京大学サッカー部でプレーしていた。Jリーグ予備軍のようなチームだった。

 

 楽山は入学当初からAチームに入っていたが、なかなか試合には起用されなかった。

 

「1年生の半ばぐらいから、試合の最後の方、相手選手が疲れていた中で、チャンスを貰えるようになりました。最初はボランチをやらせてもらえた時もありましたが、やっぱり無理だと判断されサイドになりました」

 

 大学のサッカー部で楽山が痛感したのは、フィジカルの重要性だった。

 

「すごく細かったんです。(サッカー部の中で)技術的には通用したんですが、球際で4年生にガンと当たられたら、勝てない。飛ばされるんです。(監督だった)城山(喜代次)先生は走れて戦えるベースがない選手は使わないと公言していました。守備のときに、身体を張って守れる選手でなければ、試合に使ってもらえない」

 

 少しでも親の負担を減らすために

 

 2年生になるとレギュラーに定着し、11月に行われた全日本大学サッカー選手権大会では全試合に先発出場している。

 

 中京大学は準々決勝で東京学芸大学、準決勝で国士舘大、そして決勝で筑波大学を破り、初優勝を成し遂げている。東京学芸大学には鹿島アントラーズに進む岩政大樹、筑波大学にはジェフユナイテッド千葉に進む羽生直剛たちがいた。楽山は準決勝の国士舘大学戦で1得点を挙げている。

 

 当時の楽山の生活はこんな風だった。

 

 中京大学サッカー部には寮がなかった。楽山たちは豊田キャンパスに近いマンションを借りて生活していた。朝は授業時間に合わせて起きる。9時からの1限の授業がある日は早起きになる。栄養学の授業もあり、食生活を見直すいい機会となった。

 

 授業が終わり、サッカー部の練習が夕方4時半から始まる。6時半に終わり、駆け足で自分の部屋に戻りシャワーを浴びる。そして7時半にはアルバイト先の居酒屋に入った。7時半までに入ると、賄いを食べることができたのだ。

 

「少しでも親の負担を減らすために生活費は自分で稼いでました。賄いを食べれば一食浮かすことができるので」

 

 アルバイトは深夜1時まで。家に戻って2時ごろ疲れ果てて、泥のように眠った。

 

 空いた時間には、録画しておいたJリーグの試合を観た。小野伸二たち、かつて一緒のピッチに立っていた選手たちの姿を見ることで、心を奮い立たせたのだ。

 

「今、同じような生活ができるかといったら、絶対無理です。あの頃の肉体的なつらさ、ハードワークしたことでその後の人生のベースができたとも思います」

 

 2年生から3年生になり、自分もJリーグでやってみたいという思いが楽山の身体の中で日に日に大きくなっていた。そしてひとつの決断をすることになる。

 

(つづく)

 

 

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。最新刊は「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。

2019年より鳥取大学医学部附属病院広報誌「カニジル」編集長を務める。公式サイトは、http://www.liberdade.com

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