昭和26年7月29日、広島カープの後援会の発会式が開催された。後援会といっても、単なるファンの集いではない。親会社のないカープ球団にとって、球団運営資金を出資し続ける、親会社代わりとなる組織である。これは被爆後の広島を拠点に、一般の県民市民らが日頃の生活費をやりくりして捻出するという、まさに魂のこもった募金である。後援会の発足を呼びかけた昭和26年3月20日から、わずか4カ月あまりで集まったお金は、271万5784円85銭。職場や地域では163もの支部ができ、そこから毎月後援会費として、ひとり20円のお金が給与天引きもしくは地域で集金され、窓口となった中国新聞に持ち寄られたのだ。

 

 前回のカープの考古学でお伝えしたが、この時期にはカープの後援会支部ごとにおいても、競い合ってお金を集めるようになっていた。後援会発足してわずか3カ月あまりで、7カ月分を納める「第七次」の後援会費が報道後のことであるが、どう考えても計算が合わない「第十五次」を拠金した後援会支部がでてくるのである。連日のように報道される「カープ支援金」(「中国新聞」昭和26年7月28日)のコラムを見てみる。

<四千九百六十円廣船船体艤装工場(第十五次)>など、この日、他にも第十五次まで募金している会社が8つもあることに目を疑った。

 

 これは筆者の推測になるが、「第七次」分までお金を集めて拠出した後援会支部に負けまいと、さらにカープ結成の前年のシーズンまで、さかのぼって集金し、拠金したと思われる。

 カープを支える広島の人にしてみれば、プロ野球観戦は単なる娯楽ではなかったのだ。わが身を削ってでも後援会費を納め、それにより球団の運営がみるみるうちに潤っていくと、“ワシが支えておるんじゃ”“ワシらの方が、たくさん集めているんじゃ”と、その勢いが増し、競い合うかのようにお金を集め始めた。これは各支部にとどまらず、地域の町内会長や、集金の世話役を買って出た人らにも広がっていた。おらが町のカープを誇れるものにしたかったのだ。

 

 前置きが長くなったが、今回のカープの考古学では、この後援会発会式の一日に焦点を当ててみることにする。親会社のないカープが、被爆直後の広島に誕生し根付いて成長してきた、その起源をキャッチアップしてみたい。

 

華々しい後援会発会式

 昭和26年7月29日、広島総合球場で行われたのは、国鉄スワローズとのダブルヘッダーである。カープは6位の国鉄に3ゲーム差と迫っていた。最下位を抜け出すきっかけにしたい一日だった。その大事な試合前に行われる後援会発会式は祝賀ムードがたかまっていた。午前8時に開門、2時間でスタンドはおおよそ満員となった。

 幟旗ははためき、<その数も三十本を超えた。往時、広島中学、広商、広陵が思い思いに趣向をこらしたノボリを押したて、声援した様子をしのばせた>(読売新聞「カープ十年史『球』」第62回)

 

 かつて野球王国をつくりだした、中等野球の広島中(現・国泰寺高)、広島商業(現・広島商業高)、広陵中(現・広陵高)をはじめ、呉港中(現・呉港高)らは、数々の名勝負を生んだ。互いのひいき筋がにらみをきかせていた広島の野球界であったが、それらすべての力がカープの誕生によって、いや、カープを存続させることで、粉骨砕身で走り回る石本秀一監督によって、束ねられ一つになったのである。単にプロ野球チームとしてのカープの応援というものではなく、郷土と野球を愛してやまない県民市民の魂の結晶でもあったのだ。

 

 正午きっかりに後援会の発会式が始まり、石本はマイクを握った。

<「われわれは、幾多の困難に遭遇したが、いまや後援会のみなさんのおかげで、ようやく前途に光明をみいだすことができました。感謝にたえません。みなさんのご期待にそうようにこんごいっそう努力いたします。このうえも変わらぬご声援を切望いたします」>(同前)

 

 チーム結成からわずか1年半、数多の困難に見舞われた石本の率直な言葉は、クランド全体に響き渡った。次いで、河野義信副知事をはじめ、多くの来賓から、カープ後援会の結成によせる言葉にも情熱がこめられた。その間、炎天下に立たされた選手らは体中から汗がしたたるように流れはじめて、あの大ウチワの登場となったというわけだ。

 こうした中で、ひいきの引き倒しともいえるヤジが飛んだ。「はよう、やめい。選手が倒れるぞ」と罵声が飛び交い、せっかくの晴れがましい一日に水をさした。こうした言霊が尾を引いて残るのだ。

 

 せっかくの発会式であったが、ダブルヘッダーにもその余波が残ったのか。暑さゆえに、エラーが頻発したり、集中打があったり、ちぐはぐな攻防となった。国鉄が初回にカープのエース長谷川良平を攻めたて、4点をあげて先行した。ところが、カープも4回裏に4点を返して同点、以降、6回表に国鉄が2点を追加し、リードすれば、カープも7回裏に、2点を返して追いすがった。拮抗した試合の中で、9回裏のカープは、先頭の磯田憲一の三塁打をきっかけに、サヨナラの気運が高まった。そこで国鉄は好打者の白石勝巳と山川武範を歩かせ、満塁策をとった。この敬遠に奮起したのか、武智修の選球眼が光った。カウント2-3からフォアボールを選び、押し出しのサヨナラ勝ちを収めた。

 

 さあ、この勢いでダブルヘッダーを連勝して、6位の国鉄を追いつめたい。第2戦、初回に国鉄はランナー三塁のところ、名手白石がゴロをファンブルして1点を与え、先制を許した。しかしその裏、カープはすぐさま、2番・山川が、レフトへのツーベースヒットで出塁し、ショートゴロエラーの間に、生還して同点とした。この日の先発金田正一から1点をあげたのだ。その後、チャンスをつくるものの追加点がとれないカープ。5回表、国鉄の攻撃は、ランナー二塁の場面で、打の貢献者である三塁手の山川が、なんとエラー。2点目を許し、勝ち越され、連勝を逃した。

 

 この試合、2回裏、6回裏には、ランナー三塁のチャンスがあったが、共にスクイズを見破られ、ゼロに抑えられたのが残念であった。特に6回の攻撃で、代打・山口政信がヒットで出塁した際、代走を送らなかったことに、ファンは納得がいかなかったとされる。

<特に六回は無死安打出塁の山口には代走を用いたいところであり万策を尽くしたとは言い難くファンにとっては後味の悪い試合であった>(「中国新聞」昭和26年7月30日)と鋭い指摘が報道された。これはカープの応援にかけつけているファンらの目が、長年、中等野球で鍛えられてきたコアな野球ファンであるがゆえのことであったろう。せっかくの後援会発会式当日の試合は不満が残るものとなった。

 

プロ意識のぶつかり合い

 カープの選手たちは、次の試合が2日後の7月31日、後楽園球場(東京)での名古屋ドラゴンズ戦とあって、夜中の移動を余儀なくされた。発会式と国鉄戦の終了後、夜中0時52分、広島発の急行に乗るまでのひとときを飲食の時間に充てた。

 野球とは不思議なものであるが、悪い負けの後には、なにかしら尾を引くものだ。この日、モっちゃんの愛称で親しまれる長持栄吉と井上義弘は、広島の繁華街、流川にある飲み屋「ドン」で外野守備を巡って言い争いになった。

 

 その一部始終を過去の取材をはじめ、当時の選手証言から再現してみるとする。

井上「こっち寄れ、こっち寄れいうて、くだらん」

長持「守備は、(センターの)指示にしたがわんといけまーが」

井上「スライディングキャッチいうて格好つけてみせるばかりじゃろーが」

長持「プロ野球は、ファンに喜んでみてもらうもんじゃ」

井上「それでエラーしたら、元も子もなかろうが」

 

 日頃から、長持の守備の指示に不満を溜め込んでいた井上の怒りが頂点に達した。次の瞬間、店にあった包丁を手にとり、長持に襲いかかったのである。ただ幸い、周囲からも制され、長持はわずかな切り傷程度ですんだ。

 

 原因はいったい何なのか――。当時、ベンチ入りをしていた控えのキャッチャー、長谷部稔の証言である。

「平素から長持さんは、センターを守るのに、有名になったスライディングキャッチをやるよね。ほいでね、ライトを守ることが多くなった井上さんが、センターの長持さんが試合中、『こっち寄れ、こっち寄れ』と言うんじゃげな。それで井上さんが『長持のくそが、なに言いやがるんじゃ』と言うてね。しょっちゅう言うから、それで頭にきちょった。井上さんは自分で考えて守りよるのにね。それで、とうとう爆発したよね。ドンで飲みよってね」

 

 センターを守る長持には独自のパフォーマンスがあった。ライトを守る井上を、センター寄りに守らせることで、自らの守備範囲が狭まり、余裕ができる。その分、フライが上がった際にわざとスタートを遅らせ、ボールの落下点に追いつけるか、追いつけないかのきわどいところでスライディングキャッチをしてみせる。これがファンにはたまらなかった。

 

 常日頃から、自分のショーマンシップをみせるための仕込みはしっかりしておき、平凡なフライ一つでもヒロイズムを独占したのだ。

 一方の井上は、打者ごとにポジショニングを変える“読み”がウリの堅実な守備だった。また長打力も魅力である。「いざとなったら大きいのを打つ」と長谷部は述懐する。互いにプロであり、このプロ意識のぶつかり合いの中、勢いあまり、井上が飲み屋の包丁を取り出し、長持に切りかかった。ただ、幸いなことに、わずかな5センチ程度の切り傷で、長持は遠征メンバーから外れることはなかったが、井上は大阪で下車させられたのである。

<井上選手も同列車に同乗したが、大阪で下車し自宅に帰った>(「中国新聞」昭和26年7月31日)

 

 こうした中で檜山袖四郎社長は、新聞にコメントを発表した。

<「ファンの方に申訳ない。これを機に不良選手を処分して真に気品のある郷土チームらしいカラーを持ったものにしたいと思う」>(「中国新聞」昭和26年7月31日)

 この日はカープにとって晴れがましい日だった。親会社のある球団ばかりのプロ野球において、史上初とされ、今後も現れることはないであろう後援会方式による球団運営により資金を賄う大事業をやってのけた。しかし、その傍らでは、カープ史において前代未聞の刃傷沙汰を起こしてしまうのだ。後援会結成で飛躍をとげたカープ球団にあって、その裏には大堕落となりかねない事件もあったのである。飛躍を願えば、必ず何かが尾をひいて残るというカープ球団の脆弱さや甘さが露呈した一日となった。

 

 さあ、次回のカープの考古学では、「カープ飛躍の契機――後援会設立編」は終回とさせていただく。翌々月からはプロ野球史上にない、カープの後援会組織による球団経営を行う「二年目の総括編」に突入する。その球団経営を確立させた真実に迫っていくとする、乞うご期待。

 

【参考文献】

「カープ十年史『球』読売新聞」第62回、「中国新聞」(昭和26年7月28日、30日、31日)、『カープ50年-夢を追って-』(中国新聞社)、『広島カープ昔話・裏話~じゃけぇカープが好きなんよ~』(トーク出版)


西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。2018年11月、「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)を上梓。2021年4月、広島大学大学院、人間社会科学研究科、人文社会科学専攻で「カープ創設とアメリカのかかわり~異文化の観点から~」を研究。

 

(このコーナーのフリーライター西本恵さん回は、第3週木曜更新)


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