プロ野球解説の草分けと言えば「そりゃーもう、なんと申しましょうか」の口ぐせで知られる小西得郎にとどめを刺す。独特の話法に豊かな表現力が加わり、NHKの放送席になくてはならない存在だった。
 
 数ある小西語録の中で、最も有名なのがこれである。「広岡は絹糸、豊田は木綿糸、吉田は麻糸」。1950年代から60年代にかけて、3人のショートが活躍した。広岡達朗(巨人)、豊田泰光(西鉄など)、そして吉田義男(阪神)。以上は3人の特徴を、多言を弄することなく一言で言い表したものだ。ラジオが実況放送の主役だった時代、リスナーは小西の言葉を手がかりにして3人のプレーをイメージしたに違いない。
 
 また小西には茶目っ気もあった。ある選手の股間にボールが直撃したのを受け「ご婦人方には絶対にお分かりになれない痛みでして…」。咄嗟の機転で言葉に詰まるアナウンサーを救い出したのである。
 
 小西に「木綿糸」と評された豊田の解説にも味があった。忖度なしのしゃべりは、時に物議をかもすこともあったが、“水戸っぽ”らしく、納得できない事象に対しては頑として譲らなかった。ちなみに“水戸の三ぽい”とは理屈っぽい、怒りっぽい、骨っぽいの3つからなる。その典型が豊田だった。
 
 Jリーグができた頃の話。豊田が出演していたスポーツ番組の構成・演出を担当していた縁で「敵情視察に行くから、案内してくれ」と誘われ、おともした。観戦中、あまりにもサッカーの悪口ばかり言うので「新しもの好きのトヨさんらしくないですね」と嫌味を言うと、待ってましたとばかりに口火を切った。「(母校の)水戸商にサッカー部ができた時、応援に行き、“頑張れ、水戸商エレブン”と叫んだんだ。そしたら相手校の応援団から“なまってる”とバカにされた。オレはあれでサッカーが嫌いになったんだ」。憎めない人だった。
 
 反骨心が服を着て歩いているような豊田にはサッカー以上に嫌いなものがあった。200勝、2000安打(当時)以上が入会資格の「昭和名球会」である。西鉄時代の56年には首位打者に輝いたこともある豊田だが、通算安打数は1699本。「選手の値打ちが数字だけで測れるものか」。酒の席でしばしば豊田は語気を荒げた。
 
 そこで思いついたのが「名球会」に対抗する組織である。その名も「千振会」。球界で初めて通算1000三振を記録した選手こそ、誰あろう豊田だったのだ。結局、この会が日の目を見ることはなかったが、豊田の逆張り的な構想力には舌を巻かされたものである。
 
 さる4月29日、埼玉西武の中村剛也がプロ野球史上初の2000三振に到達した。通算で461本(1日現在)ものホームランを積み重ねたアーチストの堂々たる向こう傷だ。豊田が生きていたらライオンズの後輩に何と声を掛けていただろう。「野球は正と負の記録から成り立っているんだよ」。在りし日の豊田の言葉を思い出す。
 

<この原稿は23年5月3日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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