「早稲田、33年ぶり日本一!」
 2007年6月17日、東京・明治神宮球場で行なわれた全日本大学野球選手権大会決勝、早稲田大学が東海大学を4−1で下し、全国制覇を果たした。
 9回裏、2死。最後の打者のバットが空を斬った瞬間、早稲田の選手たちが満面の笑みをこぼしながらマウンドへと駆け寄る。誰彼となく抱き合って喜ぶ選手たち。その大きな円の中央には背番号「10」の姿もあった。
 早稲田大学野球部97代目主将、田中幸長だ。

 愛媛県伊予市にある田中の実家は、米や野菜を作っている専業農家である。朝から晩まで働く両親の姿を見て育ってきた田中は、子どもの頃から人一倍自立心が強かった。
「嫌なことがあっても、親には相談しなかったですね。休む間もなく忙しく働いている両親の姿を見て、自然と“心配かけたくない”という気持ちがあったんです」

 中学3年の時、地元から離れた宇和島東高校への進学を希望したのも早く自立したかったからだという。
「3つ上の兄貴が宇和島東で野球をやっていたことや、上甲正典監督(現済美高校監督)の元で野球がしたい、という思いもありました。でも、それ以上に親元から離れ、下宿生活という厳しさの中で野球に専念したいという気持ちが強かったんです」

 晴れて推薦入学で宇和島東に入学した田中は、意気揚々と野球部の門戸を叩いた。だが、その練習を見て愕然としてしまった。レベルの高さが、田中の想像をはるかに越えていたからだ。体格、守備力、バッティング……全てが自分とはあまりにもかけ離れていた。
 
 しかし、そこで諦めるようなヤワな男ではない。「人の何十倍もやらなければ、レギュラーは獲れない」――そう感じた田中は、その日から練習後も自主トレーニングで汗を流した。来る日も来る日も、バットを振り続けた。その甲斐あって田中はメキメキと頭角を現し始め、夏の大会が終わり新チームになると、早くもレギュラーの座を獲得した。
「1年の秋、新チームになってから初めての練習試合で7番で出してもらいました。僕はその試合でホームランを放ちました。それからは常に5番で使ってくれるようになったんです。2年になると、4番を任されるようになりました」
 
 高校時代、最も自分の成長を感じたのは2年の夏だった。地方大会3回戦の松山工業戦。7−1と宇和島東が大きくリードして迎えた4回表、田中はライトにダメ押しの2ランを放った。ことホームランに関しては引っ張りが専門だった田中が、初めてライト方向にホームランを打ったのだ。その感触はそれまでに感じたことのないものだったという。
「どんな感触だったのか、言葉には言い表せませんが、とにかく嬉しかったことだけは覚えています。練習でもずっとライト方向に打つ意識でやっていたのですが、一度もきれいに飛んだことはなかった。それなのに、いきなり試合でできちゃったもんだから、自分でもビックリしてしまいました。試合に勝ったことよりも、自分のホームランに酔いしれていました(笑)」
“打撃開眼”とまではいかなかったが、着実に田中のバッティングレベルは上がっていた。今や全国レベルにまで達している田中だが、この時のホームランが強打者への扉をこじ開けたと言えるかもしれない。

 そして高校最後の夏を迎えた。春の県大会でベスト4に進出した宇和島東だったが、下馬評は決して高くはなかった。しかし、3回戦ではサヨナラ勝ち、準決勝では終盤に4点差を引っくり返して逆転勝ちするなど、一人で投げ続けるエースを打線が盛り立て決勝進出を果たした。決勝の相手は春の四国大会を制した今治西高校だった。
「春の大会、僕らは準決勝で今治西と対戦して負けているんです。僕自身は4打数3安打と絶好調でしたが、チーム力には雲泥の差を感じました。もちろん、それから甲子園を目指して必死で練習してきました。でも、決勝の相手が今治西とわかって、正直負けを覚悟しましたね」
 田中が弱気になるのも無理はなかった。宇和島東は準決勝までの全5試合、エースの高市洸志が一人で投げていたのだ。3回戦からは4日間で3試合を投げ、高市の疲労はピークに達していた。

 7月28日正午、甲子園の切符をかけて決勝の幕が切って落とされた。序盤は両チームともにミスを連発し、3回を終えた時点で4−6と今治西のリードはわずか2点。
「どちらも決勝のプレッシャーで、浮き足立っている感じでした。だから“いけるかもしれない”と思っていました」
 しかし4回以降、宇和島東打線はパタリと勢いが止まってしまった。それに対して、今治西は疲労困憊でコントロールが定まらない高市から次々と得点を重ねていく。終わってみれば、4−16という大差をつけられての完敗を喫した。

 準決勝まで打率4割を超え、主砲としてチームを牽引してきた田中だったが、決勝では 3打数無安打に終わった。
 試合後、仲間たちとベンチ裏でひとしきり泣いた田中だったが、意外にもスッキリした気持ちだったという。
「僕たちのチームはシード校にも関わらず、大会前の評価では1回戦で負けるのでは、と言われていたんです。そんなチームが決勝に進めたのは奇跡に近かった。逆にここまで来れたんだからよく頑張ったな、と。
 3年間を振り返っても、自分としては精一杯やったので、少しも悔いはなかった。すぐに気持ちは吹っ切れました」

 敗戦の余韻に浸ることなく、田中は次なる目標に向かって進み始めていた。

田中幸長(たなか・ゆきなが)プロフィール
1986年2月1日、愛媛県伊予市出身。小学1年からえひめ港南リトルリーグに所属。中学1年時には4番としてチームを全国大会ベスト8に導いた。宇和島東卒業後、早稲田大学に進学。ベンチ入りを果たした1年秋には初打席から2打席連続代打本塁打を記録し、注目を浴びた。2年春から4番に座る。大学での通算本塁打は7本。昨年11月に97代目主将に就任した。178センチ、82キロ。右投右打。









(斎藤寿子)
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